【戦後80年・余島キャンプ75年に寄せて】戦後の青少年育成と組織キャンプ場の意義について
2025年は戦後80年。神戸YMCAが運営してきた組織キャンプ場の余島キャンプ開設75周年。
日本の青少年育成は果たして何を生み出し、何を生み出さなかったのか。
余島キャンプ場が2026年3月末で撤退を余儀なくされている今も、多くのキャンパーたちが多くのキャンプスタッフに支えられて、貴重なキャンプ体験を積んでいます。
戦後80年の節目に、青少年教育のひとつの意義について、ジョルジュ・バタイユの思想を用いた議論の文字起こしを公開します。
2024年9月21日配信
阪田晃一 YMCA Camp Yoshima キャンプディレクター
宮台真司 社会学者・映画批評家
配信のアーカイブはこちら ※音声があまりよくありません
テーマ:戦後の青少年教育の意義〜バタイユの普遍経済学試論と呪われた部分
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阪田:みなさんこんにちは。
宮台:こんにちは。
阪田:今年はなんと、急遽余島から初めてキャンプ部屋トークのライブ配信をしています。
宮台:ここ余島は瀬戸内海の小豆島に隣接する無人島です。
阪田:宮台さんにも何度も今まで来ていただいていていますが、ここは神戸YMCAが運営する組織キャンプ場で、正式には1949年から始まりました。74年目の夏を今年迎えたということになります。しかし今年は蒸し暑いですね。
宮台:蒸し暑いですね。今日は2024年9月21日です。今年はね蒸し暑いですね。配信の直前ぐらいからちょっと風が吹き始めたけど、でも暑くて朦朧とした状態で喋るのも良いかなと思います。
阪田:ということで始めます。ここはビーチになっていて、今後ろでは子どもたちが海入っていたり、地元の人たちが遊びに来たりしています。いろんな声入るかもしれません。
宮台:さっき雑談を耳に挟んだんですけど、ここに来て霊的な体験をする人が多いんですか?いろんなものを見たりするようで。
阪田:そうですね。いろんな方がここ来るんですけど、僕たちは大学生のキャンプカウンセラーと一緒にキャンプをやるんですが、中には見える人や感じる人がいて、そういう人たちはあんまりベラベラ喋ったりしないんですけど、例えば子ども10人前後でグループを組んで預かるので、必ず人員点呼をするんです。ある時「見える」カウンセラーが点呼に手間取っている。おいどうしたと聞くと「何回数えても8人のはずなのに9人いる」と。そういう子は実は見えてる。ちょっと経って「あれ?分かりました。一人はあれでした。。」みたいな感じになったことがあります。
宮台:こういう話があります。旅館に俳優さんが3人しか来てないのに4人のお膳を下さって、「いや3人しかないんだけど」というと「今4人いらっしゃってますよ」ってやつですね。
阪田:そうなんですよ。僕はあんまり見えないのですが、さっきユングの話をしましたけれど、そういう風な世界があるっていうこと、そういう体験があるっていうのは信じているんです。
宮台:僕は、実は阪田さんにはさっき言ったけれど、最近すごく霊的な体験に見舞われていて、ちょっと浮遊病とか夢遊病とかになってしまっていますね。
阪田:そのようですね。僕も何かお手伝いすることができたらと『易経』を引っ張り出してきたりしています。話を戻すと、子どもたちもよくそのような体験をするので、出くわすことがあります。以前、別のスタッフから相談があったんです。「ちょっとこの子病気ではないけど見て欲しい」と。なんだろうと思ってその子を見にいくと、あれと思った。それで「もしかしたら見えてる?」って聞いたんです。そしたら微妙に頷いて、僕だけでも話を聞こうかといったら、いろいろと体験を話してくれたことがあります。
宮台:そういうことはありますね。
阪田:はい。ここは無人島なんですけど、300人が泊まれる施設があります。こういう海に囲まれた場所で子どもたちがいつも遊んでいるので、ついてくる子どもの霊がたくさんいるようです。でもこの島はすごい強力な何かが守ってくれているので、海の外までは悪い奴が来るんだけど、中には入ってこないから安心して遊んでいいですよって、ある方が言ってくださいました。
宮台:結界が張られているということですね。
阪田:そうです。たくさん人が来る場所なので、そういうことはあり得るんですね。こういったことはあくまで体験なので、それを人がどう体験をするのかと、それが語られた時に、つまり聞いた人や見た人がいることを聞いた時に、どうするかなんですが、僕に取っては良くある話ですね。
宮台:<集合無意識論>で有名なユングがいます。フロイトと袂を分かって、後半生はグノーシズムとしてイエスを研究した人だけれど、彼によれば「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない」。神秘現象があるかどうかではなく、神秘体験をするかどうか、それがとても重要だと言えます。
阪田:それで思い出すのは、余島にも関わりが深い「はんしん自立の家」というチェシャーホームが宝塚にあります。そこは脳性麻痺の方々が暮らすホームです。1953年にここ余島で「どんな人にも尊厳がある」ということで、肢体不自由児のためのキャンプが始まりました。障がい者は家で隠されているような時代でしたから、すごいセンセーショナルだったんです。車椅子もない時代。杖をついたり、這いつくばったりして、それでもこうやって海で遊んで、BBQをして、「生まれて初めて尊厳的に扱われた」と多くの参加者が後に回想するほど、強烈なインパクトを持ったキャンプでした。
その時の体験がきっかけで作られた、脳性麻痺の方々が暮らす専用のチェシャ-ホームがあるんです。ちなみにイギリスのチェシャー財団から要請があって作ったので、チェシャーホームです。一人ひとりに寄り添い、本当に尊厳とは何かを自問自答しながら運営を続けている素晴らしいホームです。その方たちの多くは、言語情報に頼らずに生きている。上田さんという方と仲良しなんですが、施設長曰く「全く聞こえてない」はずなんです。でも悲しい顔をされたり、嬉しそうな顔をされたりする。僕がいくとスッと2階から降りてきてくれるんです。
だから言葉が聞こえていない人の体験は、やはり言葉に左右されないんだろうなって思います。本当に不思議です。直に感情が伝わってきて、沸き起こってくるものが表情に出たりということなんじゃないかなと思いますね。
宮台:元々生き物の体験は、最先端の脳科学による<予測符号化理論>によると、「自由エネルギー最小化の法則」といって、名前はどうでもいいんだけど、徴候だけで逃げたり、あるいは徴候だけで捕食したりする。そうしないと逃走に失敗する、捕食に失敗するということがある。最小限の情報で、どれだけカテゴリカルな認識をするのかっていうのが、生き物のポイントなんですね。動物も人間もそうです。
ところが人間は3000年+α前から、言葉を今までとは違う特殊な、つまり散文的・ロゴス的な使い方をするようになった。それは文字が生まれて遠隔まで届くようになって、文脈に依存しない言葉の力が重要になっていったんです。だから広域の統治ができるようになった。それが今日につながっていくんだけど、その反面予測符号化が言語的になっちゃうんだよね。つまり言葉にできるものだけに反応する。それを僕の博士論文では<予期>というのだけれど、言葉以前の予測符号化と言語以降の言語的な予測符号化との<予期化>はかなり違う。言葉にできないものはほとんどスルーされてしまう。
でも阪田さんのお話を伺っていると、様々なカテゴリカル、言葉的な認識に障害があることによって、むしろ、言葉にならないものに対する認知が開かれて、生きうるということですよね。
阪田:そうですね。本当に<言葉>がテーマだなと思います。余島で青少年育成をしていると、若い人たちもそうだし、言葉でより変な方向に行っちゃう人もいるし、言葉で解放されていく人もいる。改めて宮台さんとの実践が重要になってきています。
宮台:言葉でおかしくなっていく人を、僕は<言葉の自動機械>と呼んでいます。言葉で組み立てられた恣意的な装置の中で高速回転して、スピンアウトしていっちゃうみたいな状況です。言葉の暴走と言った方がいいかもしれないけどね。それに対して<言葉によって開かれていく>というのは、言葉は暗号化とも呼べるし、暗号とも呼べるけど、言葉にならないものにつながる、最初の扉、ゲートとして使う言葉は、言葉にならないものの扉になる。そういうふうな使い方をする人は言葉によって開かれていくわけですよね。
阪田:そうですね。その話から今日の本題を展開していきたいと思います。実は大きな発表です。正式にはすでに発表されていますが、ここ余島をYMCAがキャンプ場として運営していけるのがあと残り2年、今年と来年とになります。つまり2026年3月末でYMCAがここから撤退しなきゃいけないという状況になっています。
もともと地主さんがいらっしゃって、ずっと長い間、個人の地主さんにお借りする形でキャンプ場を運営してきました。神戸YMCAは継続を希望していたのですが、元々の地主さんがある企業にこの土地を売却してしまいました。売却先との交渉の中で、裁判にもなったんですけども、YMCAが和解案をのむ形で活動は2年後に終了ということになっています。
その決定を受けての動きについては、この場ではあまりお伝えはできないんですけども、今日この機会にですね、宮台さんを交えて議論したいなと思うのは、余島は特に過去75年、どういう意義があったのかっていうことを、バタイユの『全般経済学試論・蕩尽~呪われた部分~』から話していけたらと思っています。
宮台:『普遍経済学』と言ったらいいですね。
阪田:なるほど。今の翻訳は「全般経済学」となっています。フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユ(1897~1962)による経済論です。
宮台:全体性を論じますよということです。
阪田:そうですね。全体性の中で経済を論じないと意味がないとこの本には書いてあります。さらにバタイユは、広島に原爆がなぜ投下されるに至ったのかっていうところに、とても強いモチベーションがあったので、『魔法使いの弟子』などの書籍も残している。この余島も戦争の反省からキャンプ場として歩みをスタートさせたので共通性があるなと思いました。
僕はたまたま手に取った本を読むので、後から繋がってびっくりすることが多いんですけど、この夏こう考えていました。余島っていう場所は、いわゆるキャンプ場、レジャーのキャンプではなくて、教育的な目的を持ったプログラムがあって、それに参加してもらって人格形成をする、自然の中で仲間たちと過ごすことによって自然に人格形成されていく。そういう場所です。
我々のような有給の職員や大学生の無給のボランティアがそれらのキャンプを指導監督します。キャンプカウンセラーと呼ばれる人たちです。
宮台:今そこにいらっしゃいます。
阪田:そうですね。今、聞いてくれている方もいるんですけど、そうやって運営されている場所です。
この夏ですね、特徴的だったのは、余島の発表があったことも多少関係していると思うんですけど、「ひと夏ずっと余島で過ごします」という学生の、その過ごし方が印象的で、何かに取り憑かれるように、何かあんまり合理的ではない、非合理な理由がそこにあって、私はここにいるっていうような感じを受けました。
その学生たちに僕が問うたのは、余島っていうのは戦争責任から始まった歴史ある場所だし、教育的にキャンパーを迎えてある実践をするということは、そんなに簡単な仕事ではないんですよね。当然、夏は暑いですし、泊り込みで働くってことはかなり体力もいる。楽な仕事ではない。でも僕からすると、若者が持っているエネルギーを目一杯使っても追いつかない場所が、この余島じゃないかと思うんですね。
同じように、キリスト教で言うと<賜物>なんですけれど、自らの賜物を目一杯使ってもまだ足りない。もっとやらなきゃって思える場所がここ余島以外に、普段の生活であるのか。大学はどうだ、アルバイトはどうだ、家族との暮らしではどうだ、と問うた時に、やっぱりそんな場所はないんですね。
宮台:よくわかります。バタイユの『普遍経済学試論』で用いられている概念的な二項図式を言うと<バランス>があるわけです。一方に<過不足なし>。一方に<過剰>があるわけですよね。似た概念だけど、一方に<増与>があって他方に<交換>があるわけですよね。ちなみに増与は<ギフト>。
ドイツ語でギフトは毒。増与っていうのは、増与された側が力を帯びると言ってもいいし、負担=バーデンですね、重荷を負う、いつか返さなきゃってなるという意味で、力が満ちた状態になるんですね。湧いてくるってことですね。<交換>は行って帰って、だからバランスして、それで並行するわけです。なので、そこには力が残っていない状態です。
関連した概念で、<価値的な貫徹>という構えがあるのに対して、<学習的な適応>という構えがある。今三組の概念を出したんだけれども、例えば阪田さんと僕が荒野塾を通じて人々に伝授したいと思っているものは、過剰を厭わない、あるいは過剰を目指すということ。過不足なしじゃなくて過剰を目指す。交換で帳消しではなくて、贈与をしたり贈与を受けたりで力が満ちた状態、アクティベートした状態を保つ。
周りに合わせる、学習的な適応をする。例えば「頭がいい人」って、昔と違って最近になればなるほど、<学習的適応能力>がある人が頭がいいことになってる。そうではないタイプの頭の良さがあって、それを<価値的な貫徹>に向けた、損得感情ではなくて、自分の過剰さを表現するために頭を使うような、そういう人を、つまり「過剰で贈与を行い価値貫徹のために頭を使うような人」を育てる。
鉄は熱いうちに打てだから、子どもや若者に、体験デザインを通して享受してもらうことで、そういう風になってもらおうっていうことをやっているわけだけど、実はこれはバタイユの図式なんですね。
阪田:そうですね。人類学的と言いますか、バタイユの本では<アルカイック>という言葉を使って説明されています。「古風な」とか「昔ながらの」という意味になるんですけど、<病院化社会・学校化社会>を批判的に論じたイヴァン・イリイチにも似てる思考で、古風な、昔の人がよく用いていた言葉で考えましょうっていうことですよね。
そこでバタイユの、なるほどなって思った記述は、「太陽を見なさい」という言葉。昔、人々は太陽に憧れた。なぜならすべて万物の源は太陽だからだ。太陽が命の出発点だからだ。
宮台:「今日、ママンが死んだ」という文章で始まる『異邦人』ではね。太陽が眩しかったから、殺しちゃいましたと続く。
阪田:なるほど。バタイユはこう続けます。「太陽はずっと燃え続けているだろう。誰からもらったわけでもなく、燃えたからって何があるわけでもない。ただ燃え続ける。ただ贈与し続ける。昔の人々は太陽に憧れたんだ」と。だから「ただ使い続ける。ただ与え続ける」っていうことが愛られた時代がずっとそこにあった、ということですよね。
そこからマックス・ウェーバーを引いて、<資本主義の倫理>が始まってきた時に、使い続ける者たちよりも持っているもの、使わずに貯めていく人が社会の中で価値があるというふうに認識されていった。そこから戦争に、最終的にはバタイユは繋げます。なぜか。本来は、使い続けるために人間はいる。ただ使うために生きてきたものが、何かを持ち続けるために生きているというふうに価値が変わってしまった。
そのことを<呪われた部分>と表現しようと試みるわけですけども、先ほどの大学生の話に戻ると、ただ使い続ける、ただここ余島に来て人の役に立ちたい、何ができるかよくわかんないけど、体力があるんだったら体力を使いたい、アイディアがあるならアイディアを使いたい、専門家だったら専門性を使いたい。まだまだ未熟だけどそのエネルギーは私には余っている。だからそれをただ使いたいんだ、と意志して余島に来ている。
そんなふうに余島は機能してきたんだなと思っていたら、なんとなくバタイユが思い浮かんできて、ふと手に取って『普遍経済学試論』を読んだんです。これはまさしく、さっき考えてたことだなと腑に落ちたとともに、この図式を使えば、余島がなぜ社会にとって必要な場所なのかがかなり明確に言えるんじゃないかなと思って、一回それをぜひ宮台さんと議論したいなっていうことで、LINEでもお伝えしたところなんですね。
宮台:先ほど、ここに来ている大学生の発言として紹介された「不合理な理由」で来ている大学生がいたとして、その「不合理な理由」には語彙が当てられないから不合理なのであって、言葉を開発すればその不合理もまた合理的になるっていうことで、バタイユの言語仕様はそう作られているんです。
元々聖職者の、神父様の子で、神学研究からヘーゲル研究に進んだ。神学は世界そのもの、世界全体を扱うわけだけど、ヘーゲルも「世界精神」という名で世界の全体を扱う。これ両方ともね、よく「ヘレニズム的時間観・世界観」とかって言うけど、<時間軸上で成就されていく全体性>なんです。
ところがバタイユは、破滅的大失恋をきっかけにして、全く違う全体性に目覚めるわけですよね。それは『呪われた部分』から言うと、「言語や言葉は世界の、つまり全体のごくわずかしか覆えていない。その言葉で覆えていないものを見ないふりをする、あるいはそのうちフリをしているうちに見えなくなってしまう。そう生きている。それがいかに貧しい生き方なのか」ということを説くようになるんですね。
僕はもう過去15年ぐらい、もっと前からかな「<性愛の時空>と<社会の時空>は集合論的に直和分割される」、つまり別の時空であると言い続けてきて、その出発点は吉本隆明だと思ってたんですけど、バタイユだったということに気が付いたんですよね。吉本とバタイユって死ぬほど似ているところがある。
阪田:吉本も書いてますよね。バタイユ紹介を。
宮台:そうです。バタイユの言葉で言うと、我々にはもともとは<性愛の時空>しかなかった。<社会の時空>がなかった。社会の時空は法生活の時空で、言葉で作られた法に、罰が怖いから従いますという、言葉と法と損得に縛られた、そういう時空間ということになります。
でもそれは、先ほど少し文明化の話をしましたけど、4万年前に歌とは違う言葉ができた。最初は<詩的言語=Poetic Language>が有意だったのが、文字化され、文明化されることで、詩的言語的なものではなく<散文言語=logos/Prose Language>に変わっていく。つまりノリではなくて論理で動くようになる。悲しい歌を聞くと悲しくなる。つまり巻き込みがあるよね。でも悲しみとは何か僕が語ったとして、人は悲しくならない。
これは<歌>と<言葉>の違いなんだけれど、それまで人は言葉をできるだけ歌のように使おうとしていた。だから例えば力が湧くとか、阪田さんが喋るとワクワクするけど、横にいる別の人が喋ると、同じ言葉を喋っているのに何も生じないとか。そういうことを絶えず体験してきたんだけれど、今言った文明化、文字言語化をきっかけとして、そういうセンスあるいはセンシビリティが、人から失われていったとバタイユは言っているわけです。
最初は<性愛の時空>しかなかったのに、<性愛の時空>と<社会の時空>が並び立つようになった。しかしそうすると、社会と法空間、法生活の方がメインになった。そして言葉や法、そういうところの外側にある性愛の時空が周辺化する。つまりマージナライズあるいは、見えないところに隠されていくということになる。そうすると人は、当然本来の生き方と違うことを教えられているから生きづらくなる。
つまりこれは吉本だったら<疎外>と言われる状態で、だから本来のものに戻ろう、つまり性愛の時空に戻ろうとする。その傾きや力を<エロス>と呼んだ。非常に、今の話を皆さん聞いて分かると思うけど、ロジカルなんですよ。吉本の議論では<母的なもの>という概念がとても重要で、もともとは定住が始まってからも長い間、母系社会があった。つまり同じ母が先祖だという<オリジナルマザー=原母>概念。
やがて同じ母の力をもらう(母系)戦争の指揮を男が行う(父権)、それから政治の指揮も男が行うようになった。つまり「母から力を継承してその力を父が使う」。つまりこれは<母系父権>という状態で、その時はまだ、吉本隆明によると<対幻想>的なもの=性愛的なものが残っているんです。母を尊崇するとかね、母から力をもらうっていうのはエロスの力なんです。元に戻ろう。元来た場所に帰ろうという傾き。
ところが文明化すると<権威>と<権力>が、つまり権威=母、権力=父が分離されている状態よりも一緒の方がいい。父系の父権になるわけです。そうすると人は、バタイユで言えば<性愛の時空>を<呪われた部分>だ、あるいは言語化できないものを封印しなければいけない、というふうに、当たり前に考えるようになってしまって、人々が力を失っていく。
力を失いながらも元来た場所に戻ろうという、全体に合一しようという志向=オリエンテーションが人にはあるので、「一夜にして天皇主義者が民主主義者になった」ところで、民主主義者を称する者たちが、党派的全体主義に平気でハマっていくという頓馬なことが起こる。それはなぜ頓馬なのかというと、民主主義者になりましたと言ってもなれるもんじゃねえんだよ。
我々は元来た場所に戻ろうと、普遍的な全体主義があるんだ。この考え方はバタイユと全く、完全に同じなんですよね。吉本の『バタイユ解説』を読むと、彼は知らなかった。バタイユの方が先に言ってた。なるほどバタイユの方がもっとすごいこと言ってた。そう書かれていたんですよね。そうか対幻想ってもともと世界そのものだったんだ。俺もそれが言いたかったんだ。バタイユの方がちゃんと言ってるぜ、っていう風に書いてますね。
阪田:安藤礼二さんの『吉本隆明論』、僕の理解では<個人幻想>というのがあって、その個人が抱く<対幻想>というのがあって、それらが絡んだ時に<共同幻想>となって、そこに全体主義の可能性がある。<対幻想>というのは自我の二重性のようなもので、反対のものを幻想として持つがゆえに、それが絡み合った時にどっちに持っていかれるかが重要で、古層に、さっき宮台さんがおっしゃっていた「帰りたくなる」という傾きがあるから、気を抜くと簡単に全体主義に行ってしまう。
宮台:もう少し吉本に即して言うと、最初に<対幻想>ありきなんです。簡単に言うと、最初に性愛ありきなんです。これは性交を伴う、つまりセックスを伴う恋愛関係みたいなものに限らない。社会学では定番だけど、<家族的な関係>も実はエロス的なものとも言えます。それはね、ニコラス・ルーマンというシステム理論家によると、社会は法生活を行う時空間。でも家族は「またー、晃一ちゃんたら!」、「またー、真ちゃんたら!」という風にして、社会の法が許さなくても、家族はある種の共通感覚や共通点というものの中で包摂して許していく。
そういうのが全て家族的なんだ。だから一緒に住んで一緒に食べてても「またー、晃一ちゃんたら!」っていうのがないようなものは家族とは言えない。パーソンズの家族論を受けて展開したルーマンの『家族論』なんだけど、すごく文学的で素晴らしいと僕は思うんですよね。つまりこれがエロス的なもの。言外、法外、損得外の時空で力を及ぼし合うのは、全てエロス的なものだという風に、まず概念を考えてみるといい。つまりそれが「初めに<対幻想>ありき」。
ところがさっき言った母系父権社会、そして父系父権社会という風に、前期中期後期と展開するに従って、あえて「残念なことに」と言っておきますけど、残念なことに<力>とあるいは<力が湧く>ということの大切さが、忘れられていくということが起こる。それがつまり<共同幻想>の成立なんです。つまり父系父権社会で、初めて<対幻想>と完全に切れた、母系という概念を含まない統治権力、あるいは統治権力の大事さみたいな概念が出てきた。これが<共同幻想>なんですね。
<対幻想>から<共同幻想>が分離・分出したことで、<自己幻想>が分離・分出するっていうのが、吉本の考え方なんですね。だから簡単に言うと、国家という概念とか、自意識という概念て、何となく新しそうじゃないですか。実は同時に成立したんだよね。<対幻想>と違う<共同幻想>、あるいは<自己幻想>。もっと簡単に言うと共同幻想や自己幻想は「無理やり強いられる」っていう感じがある。<対幻想>は違うんですよ。思わず力が出てそうなってしまう。
例えば「また-晃一ちゃんたら」と言って、みんながですね、微笑むみたいなものって、主体の選択ではないですよね。思わずやってる、中動態的な触れ合いなんですよ。これは<対幻想>の領域なんだけど、それと分離された<共同幻想>になると、「陛下が命令しておられました」みたいなことになり、それに対する、ある種の反作用の法則で<自己幻想>が生まれるということだと思いますね。
阪田:なるほど。対幻想ありきなんですね。よくわかります。話が一度「組織論」に行くんですけど、宮台さんにもなんどかお話ししていますが、僕は業務指示しないんですよ。今の話を聞いたらやっぱり<対幻想>の中で働けている限り組織は絶対強いですよね。
宮台:それは「変革型リーダーシップ」って経営学で言われているもので、命令によるコントロールではなくて、例えばスティーブ・ジョブズの横に行くと「なんかできそうな気がする、やれそうな気がする」。それは実際に不可能なことをやれそうな気がする状態に現実を歪めるような、スティーブ・ジョブズという人物の力と言われています。
でもそれが組織のリノベイティビティを支えている。最近はイーロン・マスクがそうなんです。不可能だと思っている人が、イーロン・マスクの横に行くとみんなできそうに思える。つまり現実が歪むんですよ。だからとんでもないものが次々にでてきていますね。
阪田:本当にそうですね。この夏余島の件もあってその<対幻想>の領域が強まったんですよ。それぞれいろんな思いがあってここにいるから、やりすぎる奴もいるし、やらなすぎる奴もいるけど、「あいつだからしょうがない」っていうふうになる。そうやってやっている限りはやっぱり強いんですよ。
でもそこに自意識、<自己幻想>と<共同幻想>に同時にコントロールされた人々がやっぱり一定数入ってくる。途中でそうなる人もいます。そうなった時に、普通の管理者は<共同幻想>を強めて、この理念のもとにやっていくぞと、目的のために<自己幻想(自意識)>を方向づけていく戦略をとると思うんですけど、僕はそれが肌感覚的にすごい嫌で、誰かが言ってコントロールしなきゃできないくらいの仕事だったらやめてしまえばいいって、どこかで思っています。
吉本的に言えば<対幻想>的な状態での組織運営をずっと試みている。でもそれは確かにいろんな人に<呪われた部分>っていうふうに映っています。
宮台:でも僕らから見ると校歌を斉唱したり、軍歌を斉唱したり、国歌を斉唱したり、社歌を斉唱したり、朝礼したり、訓辞をたれるのを聞いたりとか、そっちの方がよほど呪われてるんじゃないかと思いますけど。(笑)
阪田:バタイユはまさにそれを言いましたよね。<呪われた部分>が変わってしまったと。今、呪われている部分だと人々が言っているものは、かつては<至高性>だったと言いますよね。
宮台:最も高いところにあるということです。
阪田:それもさっきの神秘体験と同じような意味合いで、やっぱり帯びてしまうものですよね。至高性とは、例えば同じことを言うのにイエスが言うとそこに栄光を感じる。でもそうじゃない人が言うと何も感じない。よく宮台さんが<事実性>とおっしゃるけど、それはもう事実性の問題で論理性ではない。
宮台:力が湧くか、湧かないかなんですよね。お前が言ってもダメってやつね。
阪田:バタイユのキー概念は<至高性(パラマウント)>なので、その行為や営み自体が至高性を帯びているのか、それを損なったものに感じるのか、マイケル・サンデルも『それをお金で買いますか?』で同じようなことを言いますけど、バタイユは<対幻想>的なものが、本当はみんなが思っている経済の周りにあるのに、人々が見ているのは<共同幻想>と<自己幻想>による経済。それが全体だと思って経済のことを論じている。それが間違いなんだよと言っていて、「だからもっと普遍的なものを僕は書く」という動機で『呪われた部分』を執筆したと僕は理解しました。
宮台:おっしゃる通りでね。それがさっき申し上げたように、破滅的大失恋の経験、発見が出発点だっていうところにね、皆さんリアルを感じていただきたいポイントがあるんです。それはどういうことかというと、後でフィジオクラシー(重農主義)の話をしますが、世界が存在すること、そのこと自体がありえない<贈与>ではないですか。つまり存在しなくてもいいのになぜ世界があるのか。
実はリハルト・バイツゼッカー大統領、東西ドイツ統合の時の大統領の、お兄さんが物理学者のバイツゼッカー氏なんだけれど、自分が物理学者になったきっかけは、子どものころにお父さんと一緒に、お散歩の時に満天の星座を見る習慣があった。ある時「震撼」つまり「畏怖する感覚」に襲われた。それは「なぜ世界はあるんだろう」ということ。そのことに震えて物理学者になりましたと言うんです。
世界がなぜあるのか?から物理学者になったとというこおには、ステップが飛んじゃってるように感じるかもしれないけれど、なんとなくわかると思うんです。僕はなんで天体マニアだったのかっていうと、やっぱりそういう感覚があったからなんです。今でも天体望遠鏡を10本くらい持っています。過剰ですね。(笑)
話を戻すと「世界がなぜあるのか」、それを考えると世界そのものが<贈与>なんです。恋愛もそうで「なぜあなたは存在するのか」、あなたがいなければ私は全く違う人生を生きていたはずなのに、つまりあなたの存在そのものがとてつもない贈与だと、奇跡だと、贈与は奇跡なんですけど、奇跡だと感じることがすごい大事。だから我々が<対幻想>ベースで、エロス的な時空間を生きていた時には、この贈与という奇跡にすごい敏感だった。
だから世界が存在するということ、余島があってこういう風景がある、というこの世界があること、そのものがとてつもない贈与だということに敏感に反応ができた。
しかし<対幻想>や<エロス的な時空>よりも<社会の時空>、<共同幻想>あるいはそれに巻き込まれていったり反発したりする<自己幻想>が代わりに優位になっていくと、交換でバランスをとる。金を払って、貸したんだから渡せみたいな、渡したんだから金くれみたいな、そういう風にして均衡が一瞬崩れて、一瞬また戻るっていうね。<交換>とは帳消しなんですよ。
だから例えばマルセル・モースによれば、<交換>は何の関係も作らないんですよ。行って返ってそれだけで終わりですね。でも<贈与>は、さっきの<ギフト=バーデン(負担)>を負わせるという連鎖を通じて、人々や部族を繋げる。これはレヴィ=ストロースの婚姻規則の理論なんです。つまり『親族構造論』ですけど、この理論にもものすごい大きな影響を与える。だから贈与は関係を作る。あるいは贈与を意識すると、そのこと自体がもう絆なんです。
行って返ってでバランスをとるという<交換>が支配的になると、我々は何の関係も作れない。人間と人間の間の関係も作れない。当然人間と自然の間、あるいは自然を構成する動物植物との間の関係も作れないということになる。ものすごい合理的な発想ですよね。
阪田:その<交換>と<贈与>について、バタイユはこう言っています。例えば余島には大学生や中高生もいっぱい来るんですよ。とにかく余島に行きたと言って来るんですけども、交換原理で支配されている社会からやってくるので、「あなたそんなとこに行ってどんな意味があるの?」とか「将来何の役に立つの?」と交換条件を求められている子が多い印象を受けます。親や社会からです。
バタイユは<蕩尽>あるいは<贅沢な浪費>と言って、ただ行きたいから行くんだ、そこで自分の余ったエネルギーを目一杯使うんだということを<贈与>だと捉えています。その<余ったエネルギー>というのをバタイユは凄く上手く、合理的に説明していて、持て余しているという意味ではなくて、必ず生き物は成長のために自らのエネルギーを使うけれど、自分が成長させるためだけにとどまらない、もっと大きなエネルギーを全ての生命が持っている、だから必ず余剰するんだと言っているんですね。
じゃあその余剰は何のためにあるのか?それはただ浪費するために、使うためにあるんだと。ここにあるような砂浜、草原、そういった空間についてもバタイユは説明するんですけど、地球上で生命が存在できる場所には必ず全て生命が存在する。余島で考えればわかりやすい。道路なんかは人間が使って「圧力」がかかっている。だから他の生命はいないわけですよね。最も強い生命がそこで生存する。しかし強い生命が退けば次に強い生命がそこに生存するようになり、地球上で生命が存在できる場所には必ず生命が存在しているという状態が地球にはある。
余島も人間がいなくなったら、どんどん草っ原に、森に飲まれていきます。人間が退いたら次の生命がそこを覆うんだ。つまり自己の成長のために、という目的を超えてエネルギーは存在している。だから全ては余剰したエネルギーの流れによる。つまり地球上はある大きなうねりの中で生命がひしめき合っているんだ。それを『普遍経済学試論』にバタイユはつなげようとするわけですよね。
<贈与>はモースらの視点で、今まで僕も言葉で聞いたり喋ったりしてきましたけど、バタイユや吉本の言葉で<贈与>をもう一回記述すると、特に『呪われた部分』では、やっぱりただ使う、ただ使い続ける、本来はそのことが良しとされるような社会であってほしい。でもそうでは全然なくなってしまって、それ何のためだろう?将来どんな役に立つの?っていう風に、手段的に全てを捉えてしまう。
宮台:バタイユはね、マックス・ウェーバーを意識して書いてるじゃないですか。マックス・ウェーバーはいま、阪田さんの仰ったことを<目的合理性>VS<価値合理性>と概念化しましたよね。<目的合理性>というのは、僕たち(社会システム理論家)が言う<手段的合理性>のことで、何に役に立つんですか?それをやっていると将来棒に振りますよ。みたいなやつです。
<価値合理性>というのはそれとは違って、やりたいからやってる、手段ではなくてそれ自体が目的になっている。なので社会システム理論家のニコラス・ルーマンは目的合理性に相当するものを<条件プログラム>と言っているんです。つまり目的に適応的だという条件を満たしている。別の言い方をすると、if~, then~文なんです。「もしこれをすると得するからやってる」。これが条件プログラム。目的合理性=条件プログラムです。それに対して「やりたいからやっている」、もっと正確に言うと「それをやろうとする力ゆえにやっている」状態。これを<価値合理性>と呼ぶわけですね。
これは社会学者たちによって色々言い換えられているんですけど、例えばユルゲン・ハーバーマスだったら<道具的>VS<コミュニケーション的>という言い方をしていたり、パーソンズだったら、パーソンズと吉本はちょっと似た言葉を使うんだけど、パーソンズは<道具的>と<表出的>、吉本は<表現的>VS<表出的>、表現だからexpression、表出はexplosion、バンバーン芸術は爆発だー!っていう岡本太郎のエクスプロージョンです。
つまり僕らが何となく、みんな知っているあの感じっていうのはあると思うんだよね。僕は襲撃されて死にかけているってこともあるし、まあ探検とか冒険とかしていると阪田さんも死にかけるってことはある。死ななかったのは偶然だなと思うこともある。昔の人はそういうことばっかりだったから、特に遊動段階はそうだよね、その時に「四当五落です。今、睡眠時間を4時間にせずして何の人生の成功があろうか」みたいな発想はない。いやお前いつ死ぬか分かんねえんだから今を楽しむんだよって。
この感覚、これはね、同じキリスト者でもあるから言うけど、イエスが言ってることも、それにめちゃめちゃ近いんだよね。それをすると律法にかなっているので神が褒めて救済=salvationしてくださいます。だから他人を助けます。つまり自分が助かりたいから、自分たちが助かりたいから助けます、みたいなこと。それを馬鹿じゃねえか、助けたいから助けるのが最大の美徳=virtueだよね。これがGood Samaritan、つまり「善きサマリア人のたとえ」ですよね。
おーすごいじゃん。科学者なんかよりずっと前に、バタイユなんかが言うずっと前に、イエスが言っているんだ。お前がいいことをするのは、そうするとお前たちが救われるための手段になるからなの?浅ましくもさもしいクズだな。そうじゃなくて助けたいから助けるんだよ。この発想はもとはと言えば、イエスの時代の500年位前の初期ギリシャ、初期ギリシャというのは、古典ギリシャの中のギリシャ全盛期、ペロポネソス戦争にアテネが負けるまでのことを言うんですけど、その頃にギリシャでは全く同じことが言われていた。
ギリシャの対岸のセム族の地、つまりエジプトでは、もう一神教が生じていて、出エジプト、あるいはバビロン捕囚の時期に、旧約聖書の主要部分、トーラーに書かれるんですけど、条件プログラム化が進んでいるのに対して、つまり何かをするとすれば神様が喜んでくださるからではなくて「やりたいからやる」、それ以外にどんな美徳があるんだっていうふうに言っていた。
実は仏教にも全く同じような図式がある。紀元前6世紀5世紀は「軸の時代」とヤスパースが呼んでいて、つまり一挙に、高度文明化、四大文明が起こったりする、それが生じる時代なんですよね。その時代に、ほぼどこでも同時多発的に同じ発想が出てくる。つまり条件プログラム=道具的=目的合理性なのか?それとも力が湧いてきてやらずにはいれないからやるのか?価値合理性=端的にやりたいからやる。それをずっと僕らは二項図式として持ってる。つまり無意識の中にプリントされている。
阪田:なるほど。ちょっと脱線しますけど僕は、この8月末に富士登山に、小豆島の子どもたちを連れて行ってきました。列島が台風で騒いでるあの1週間に。ちゃんと山頂まで登って帰ってきています。
宮台:素晴らしいじゃないですか。親がよく許しましたね。
阪田:親がね、本当に今回全員素晴らしくて「全部お任せします」と。
宮台:へぇ!
阪田:帰りがちょうど、台風に向かって静岡から関西に帰ってくるタイミングだったんです。富士山は大丈夫だったんですよ。富士山を本当によく知っている方、僕が少年時代によく遊んでもらって、山を教わった白鳥さんという方がいらっしゃるのですが、僕の弟も今実は働いていて、そのスタッフとの富士登山だから、台風の影響は受けましたが、ちゃんと行って帰って来れた。で親御さんたちに、キャンプの途中の段階で「延泊の可能性がある」と伝えたんです。
宮台:(笑)
阪田:大体、全員学校休んできてるんです。もう8月末で、市町村によっては学校が始まってるから。でもだから逆に「もう延泊でも何でもいいから全部お任せします。子どもたちと決めて帰ってきてください」と。
宮台:素晴らしい。
阪田:だから世間は台風で騒いでいる最中でしたが、富士登山ができたんです。
宮台:あのね、ちょっとだけ。「全部お任せします」って巨大な<贈与>ですよね。そうすると<贈与>に対して<反対贈与>、つまりresponseしなきゃいけない、つまりresponsibilityが生まれるんですよ。
阪田:ものすごく力が湧きますね。
宮台:それが「あーだこーだ、これは大丈夫ですか?あれ大丈夫ですか?」と言われるとどんどんやる気がなくなってくる。
阪田:(笑)
宮台:そんなこと分かんないバカな親は、親をやめろよ。
阪田:はい(笑)。本当にそうですね。だから今回の保護者の方には感謝してるんですね。その時に僕は10年ぶりぐらいに富士山山頂に行ったんですよ。御殿場に住んでいたんで、元々よく学生の時には白鳥さんを手伝っていたから馴染みはあるんですけれど、今回は東山荘で白鳥さんのものとで働いている4人兄弟の3番目、ちなみに僕は長男なんですが、と一緒に登ったんです。彼は初期ギリシャ、ソクラテス以前を博士課程まで研究してたんです。
宮台:なんてことです。恥ずかしいなー。これを見て「ちょっと違うよ宮台さん」って言ってくださるように。
阪田:(笑)そんなことは言わないと思いますけど。でも僕は彼の性格がすごく好きで、博士課程で論文書かずに中退したんですけど、満期退学っていうんですかね、でも東山荘で庭師みたいな仕事してるんですよ。地下足袋履いて、富士山に子どもたちを連れて上がる。ある程度まで研究した人間が、そういう実存を生きてるっていうのが僕はすごい好きで、シュタイナーが言うような理想的な生き方なんです。
それで彼がどうやって子どもたちを富士山に登らせるのかなと思って、彼の声のかけ方とか立ち振る舞いを注意深く見てたんですけど、まったくギリシャ的だなと思いました。今回一人の子どもが、まあ親になんとなく連れて来られた子が一人混じっていて、無意識的には登りたくて来たんだと思いますけど、でも嫌々来てるような感じだった。彼は、僕の弟はですけれど、「足音で気づいた」と言うんですよ。
この足音は、宮台さんが言う、端的な価値合理性の足音ではないと。これは道具的だってことを気づいて、すぐそこで歩みを止めて「お前は登る気があるのか?」って問い詰めたんです。「ないんだったら今すぐ降りろ」って言ったんですよね。さらに続けて「登れるかどうかは問題じゃない。お前が登りたくてここにいるんだったら、引っ張ってでも上げる。でも行きたくないんだったらここにいる資格はない。今すぐ降りろ」ってかなり序盤でね、言ったんですよね。
そこはまあちょっと僕も今回は引率してる身なので、珍しく間に入って「いやいや、ちょっと待ってくれ」と(笑)。「きっと彼も登るだろうから、よし一緒に行こう」と促した。結局彼も上に行けたんですけど、でもいわゆるヘタレの歩き方だったんです。道中、僕の弟がかけてた声が「いちいち風になびくな」なんですよね。確かに風が強い中を登っていったし、高山になってくるとフラフラする。でも「なびく」って言葉は日本語でも蔑称軽蔑じゃないですか。
宮台:あー、そうだね。
阪田:ニーチェが言う「大いなる軽蔑」ですよね。お前は人の意見になびいてとか。何か大きいものになびくのか。やっぱりヘタレに使う言葉なんですよね。「フラフラするな。自分の足で歩け」とも言う。やっぱりそうやって注意深く聞いてみると、声かけがいちいち初期ギリシャ的っていうか、貫徹しろっていうことをずーっと言っている。
でも本当に体が動かなくなったらいくらでも助けてやる。だけど「貫徹しろ。とにかく貫徹しろ」と言う。それで僕、弟に直接「よっちゃんさー(よしあきなのでよっちゃん)、ニーチェ読んだ?」と聞いたんです。「ニーチェはあんま読んでないな」と。僕は「やっぱりすごいギリシャ的だと思うよ」と。
宮台:だって、ギリシャ研究者だもん。
阪田:そうなんです。だからニーチェもギリシャ研究者だったんだけどって話をしながら歩いたんです。「そうかな~」とか言いながらとぼけている感じ。そこがまたいいんです。
宮台:素晴らしいね。それは、本当に内側から発する言葉ってことじゃん。内側から発するといえばプラグマティズムで、プラグマティズムも初期ギリシャを参照する思考なので、やっぱり大事なポイントは、親が行けって言ったから、登れないと親に背いたことになっちゃうなとか、親に合わせる顔がないなとか、みんなが登れてるのに自分だけ登れないとカッコ悪いな、これ全部「if・thenセンテンス」なんです。条件プログラムなんですよ。
内から全然力が湧いてない状態じゃん。だからなびきやすいし、足を引きずりやすいし、足音が不規則になりやすいし、その意味で、本当にギリシャ的な二項図式が足音で現れるってすごいよくわかるけど、象徴的なことですね。
阪田:そうですね。だから彼なんかはね、聖書を原文で読めるんで、そんなやつがYMCAで働いてるって、僕すごい良いことだと思うんです。でも当然、彼もある種「呪われた部分」に属する者なので、そういう意味では日の目は見ないんでしょうね。組織の中ではね。本人も望まないだろうし。でも僕は久しぶりにいい経験をしました。山登りってどうしてもギリシャ的な感じがあるので、貫徹するっていうことが登るっていうことの原点なので、いい経験でした。
宮台:ヒラリー卿の「なぜ山に登るのか。そこに山があるから」っていう言葉がありますね。エベレストの登山家です。
阪田:僕も今ちょっとそれを思い出しました。
余島に話を戻すと、余島もそうだし、YMCA東山荘もそうなんですけど、バタイユを読んでから考えると、特に戦前から戦後ですね、戦後はやっぱり戦前戦中の反省を踏まえているので、ここ余島をキャンプ場にしようと動いた中心人物は今井鎭雄さんという方です。バタイユの『呪われた部分』は1949年だったと思うんですよね。余島がプレキャンプしたのが1949年で、今井さんは多分バタイユを読んでないと思うんですよ。
でも戦争に行った人たちは、やはりバタイユが言う<最も贅沢な浪費=同種の殺し合い>を目の当たりにしているので、そのおぞましさを知っている。バタイユはむしろそのせいで、本来良き部分だったはずの<呪われた部分=贅沢な浪費>が、人々が忌み嫌う部分である<<呪われた部分=同種の殺し合い>>として理解されてしまっている原因だというふうに言うんですけど、戦争で見た<呪われた部分>をやっぱりどうにかしたいと無意識的には、かなり強く思って帰ってきたと思うんですよね。
戦後余島が<交換条件>のために若者が働く場所ではなくて、ボランティアで、交通費や実費は支給されるけれど給料はない、金銭的な対価のためでもなくて来れる場所であり続けきた。じゃあここに来て「いい思い」をするかというと、ディレクターに厳しく言われて、それでも歯をくしばってついていく、決して生ぬるい感じではない。そんな奮闘できる場所。それが75年間続いていて、毎年のように多くの若者や子どもたちがやってきて、バタイユの言う<余剰したエネルギー>をとにかく使い切って帰っていく。そういうことをずっと続けてきた。
吉本が言う古層への傾き、全体へ帰りたいという傾きは、バタイユからすると太陽に憧れていた頃への傾きということになりますよね。だから人間は必ず使う。最終的には使わないとダメなんだと。余らしたらダメなんだ。でも資本主義の精神が始まったきた時に人々は貯めるようになった。貯めた結果、エネルギーが余剰して産業革命が起こった。よりエネルギーが産業に傾くようになった。産業革命が起こっちゃったから、産業は合理的になって、より余剰なエネルギーを生むようになり、やがて、、
宮台:あのね、マックス・ウェーバーが、資本主義の誕生はキリスト教のプロテスタントの一派から生じたんだと言っていて、それが<カルバン派>なんです。
阪田:そうですね。『資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理』ですよね。
宮台:そうなんです。<カルバン派>は簡単に言うと、神はクリエーション=天地創造した瞬間に、誰が救われ誰が救われないかを決めている、これを<予定説>といいますが、それを主張した。これは神に「私はいいことをしましたので救ってください。私は悔い改めているので救ってください」と懇願する、神への相対者である人間の、絶対者である神への取引の持ちかけ=涜神行為を「神への冒涜」であるとし、神を冒涜するなという説なんです。
そこで人が不安になっちゃった。「俺ってどっちなの?救済リスト?非救済リスト?どっちに入ってるんだ?」そこで変なトリッキーな意味論が生まれた。資本主義の、簡単に言うとですね、取引のゲームで蓄財できれば、つまり資本が増えれば、単なる預金じゃないんですよ、資本は元手だから、元手を使って利益を上げて、その利益を元手を増やすために使うのが資本主義なんだけれど、利益を元手に当てるので、自分がいわゆる大宴会みたいなので蕩尽するとかできない。我慢なんだよ。
つまりマックス・ウェーバーはカルバンを読み替えた。つまり<修道院的禁欲>から<世俗内禁欲>にシフトして読み替えたんですね。これ面白いことだよね。経済人類学のカール・ポランニーっていう人が言うんだけど、蕩尽も快楽なんだけど、我慢あるいは我慢できたってことも快楽、享楽に属することがあり得る。
阪田:わかりますね。
宮台:<修道院内禁欲>も<世俗内禁欲>も享楽になりうる。享楽になってたんだよねっていうことをちょっと抑えて欲しいんだけど、でもやっぱ我慢なんですよ。我慢できたことが享楽になってるっていうことだけであって、やっぱり我慢。僕は分かりやすくするためにね<微熱>と<沸騰>という言葉を使うように最近してるので、阪田さんがおっしゃったね、湧いてくる力は余らさずに絶えず絶えず使うこの状態、これが<微熱>の状態なんです。
使わないで、我慢我慢我慢すると、精神医学で抑鬱的、つまりサプレスされてディプレッシブになっちゃった状態、抑鬱は我慢していて否定的になってる状態なんだけど、単なるメランコリーとはちょっと違うんですよね。サプレスされてディプレッシブになっているこの状態は<沸騰>に繋がっちゃうんだよ。バーンって。それがアメリカの大統領選挙のポピュリズムだったりとか、極端な場合には戦争なんですよね。戦争に狂喜乱舞するっていうようなこと。
それ日本とドイツが一番著しかったけれどそれも、我慢に我慢を重ねて、微熱なき生活を送っているから沸騰しちゃった。<沸騰>はちなみにエミール・デュルケームという社会学者の概念ですよね。
阪田:<集合的沸騰>ですね。宗教的なものを説明するときに用いましたよね。まさにそうでバタイユが使用していた<蕩尽=贅沢な浪費>ということですね。ただ使い続ける。それがよしとされていた時代から、価値が変わったことの変遷が『資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理』に書かれていることで、我慢が美徳へと、世俗内禁欲へとシフトしたというときに、使われるべきエネルギーが、宮台さんの言葉で言う微熱ではなくて沸騰的な感じになってしまった。
その畝りが大きな産業を生み、産業を生んだらさらにそれがたまりにたまるようになって、最も贅沢な浪費である戦争、武器も何も使いまくる殺し合いに発展した。バタイユが言う「最後は浪費しなければダメ」っていうのが、吉本が言う「疎外から戻りたい」っていう傾きと関連すると思います。だからこそ狂気的な殺戮マシーンである原爆みたいなものがありえたんだっていうふうに、バタイユは考えたんだと思いますね。
宮台:そこにね、これもちょっと古い人ではあるけどある人たちを加えたい。それはフランクフルト学派、特にフロムとフォルクハイマーとアドルノの考え方を加えたいですね。阪田さんと僕が同時に見ていたワイマール共和国の、1920年代のドキュメンタリーがありましたね。
阪田:『ワイマール共和国 自由の国が生んだナチス』ですね。NHK映像の世紀です。
宮台:フランクフルト学派たちが言っていることが、映像でこれでもかというくらい説得的に描かれていた。つまり世界一民主的なワイマール憲法を持った、ワイマール共和国。世界で初のLGBTカフェがあり、ベルリン駅近くには僕の大好きなマグヌス・ヒルシュフェルトが所長を勤めた性科学研究所があり、科学的に同性愛を含めた、あるいは人々がアブノーマルだと思うような性愛の正常性、ノーマリティを実証していくということをやった、素晴らしい微熱の街ベルリン。
ところが1929年の世界大恐慌を機に、瞬時に潮目が変わったんだよね。それはね、本当にあれはいいドキュメンタリーなんだ、つまり今まではね、僕もそうだったけど「中流だった人が急に貧乏になってダメ意識に駆られた」、あるいは「中流になれるはずだったのにダメになって、予想が外れてダメ意識に駆られた」。ダメ意識って自分の欠落そのものだから、それを「ドイツすげえ」とか「なんとかすげえ」っていう大きな乗り物に乗って埋め合わせるよっていう図式。この部分がよく語られるんだけど、次のことも描かれている。
実はねフランクフルト学派の人たちは、もう一つのことを言っていて、それは<嫉妬>なんですよ。つまりね言外・法外・損得外のフローに乗って、同じ世界で一つになれるような<微熱の時空>を生きうる人に対して、微熱の時空を生き得ない、つまり言外・法外損・得外に対するセンス、要するに感受性が鈍くて、ノリが悪くて、クラブで言えば「踊れなくて」みたいな、「誰も見てないから踊ろう」って言っても「いやー無理です」みたいな、こういう人たちはフローに乗ってフュージョンするような人たちに嫉妬していた。
これも「やりたいけどできない」という抑鬱的な力を高めるから、何か機があれば「LGBT性科学研究所をぶっ潰せ!」となって、実際にぶっ潰されましたよね。ナチスがぶっ潰したんだけど庶民もぶっ潰した。全体主義って神経症的な欠落感や、不安に喘ぐ人間に「すげえっていう餌」を提供しているっていう、上からの面だけでやっぱり説明することができなくて、ある種の過剰適応、文明の言語的生活への過剰適応でノリが悪くなっちゃった、セックス下手になっちゃったみたいな、ダンスできなくなっちゃったみたいなやつがいる一方で、しかしでもノリがいいやつ、セックス上手いやつ、むしろ上手いというよりは楽しげなやつ、踊りが楽しげなやつがいっぱいいる。上手い下手じゃない。楽しげにできるやついっぱいいるじゃん。
そうした抑鬱感。ディプレッシブな感覚をどんどん持っていく。今はインターネットがあって、その意味でさらに恐ろしくて、見たいものをだけを見るっていう面もあるけど、うかうかしてると予想外のものもお勧めされていってしまう。すっごい踊りが下手で鬱憤を溜めているやつのところに、そういうものが行っちゃったりするでしょ。よくあるんだよ。いやむしろあった方がいいんだけれど、でもそれがあった方がいいというのは閉ざされないという意味であって、そもそも副作用は確実にある。というのは嫉妬なんですね。
阪田:嫉妬ですね。『自由な国ワイマール共和国が生んだナチス』は、題名からしてものすごい鋭いテーマのドキュメンタリーです。僕が印象に残ったセリフは「決められない政治を俺が決める」とヒトラーは喝破したんですよね。なぜか。それはリベラルな考えで政党がめちゃくちゃ増えたんです。ワイマール共和国は、それぞれの意見をちゃんと聞こうとするから、労働者から、貴族階級から、あらゆるところから代表者を選んで国会を組織していた。そうしたら大恐慌が起こった時に、誰が決定してどうやるんだということが、なかなか決まらない。
決まらない中で苦しむ人たちは増えてくる。宮台さんがおっしゃる嫉妬を抱えている人々は、「ワイマール共和国じゃなかったら俺たちはよくやってたのに」っていう人たちなんですよね。ワイマール共和国という自由な国になったら、特に力があるユダヤの方たちがいろんなポジションに就くし、いい生活をしているように見えるし実際しいる。
宮台:当時のねデパートの経営者とか銀行の経営者とかほとんど全てがユダヤ人なんですよね。
阪田:そうです。だから鬱憤がどんどん溜まってきて最後は沸騰的にナチスを生んでしまうっていうことですよね。
宮台:だから「俺は踊れない」とか「俺はノリが悪い」とか。それは<自己幻想>、つまり自意識なんだけど、こんなことはどうでもいいんだよ。踊るのどうでもいいの、遊ぶのどうでもいいの、セックスするのも自分が上手いか下手かとか、得意か不得意かとかどうでもいいっていう教育が、もっと普遍的かつ全体的に、多くの人たちに施されていたらいいのになってやっぱり思わせます。
阪田:本当に諸刃の剣っていうか、危ないと思ったのは、この余島の件みたいなものがあると、僕もやっぱり「なんでちゃんと決めないんだ」と思うんですよね。ちょうどそのドキュメンタリーを見たころに、僕も今回の件で「民主的にやるから決まんらないんだ」と思ったんです。それは正しいんですけれど、だったら「俺が決めてやる」みたいに思う。あれこれどこかで聞いたセリフだなと思ったらヒトラーのセリフだったんです。
宮台:あーだから僕が小学校6年生の時に書いた作文だ。
阪田:ちょっとこれはまずいなと思ったんです。逆にそうやって動員することも出来る。でも戦争責任から出発したキャンプ場だからと限らず、それは絶対にやってはいけない。
宮台:僕が小学校6年生の頃にNHKの毎週の、社会問題を扱う『現代の映像』というドキュメンタリー枠があって、公害企業と公害患者、あるいは薬害企業と薬害患者、都市と農村、大人と若者、色んな強者弱者の図式で、弱者がこんなに虐げられているのに誰も目に向けないのはどういうことだみたいな告発。それを見て涙を流しながら怒り狂って、それで作文で「僕は独裁者になりたい」と書いた。
NHKの放送終了後、日の丸が流れている所に僕は、日の丸じゃなくて溶鉱炉の火の形にして、今日は300人処刑!とか出して処刑理由を全部話をする。そうするとまさにこの社会をちゃんとできるって思って書いたんですよ。
阪田:それ小学生ですよね?
宮台:そう小学生。その前の作文はスペース・コロニーで原子力を研究したいって割と優等生的なのを書いていたんですけど、ちょっと狂っちゃったんですね。
阪田:でも小学生の時でよかったですよね。
宮台:そうですね。
阪田:それを権力者がやっちゃうとっていうことですからね、あのドキュメンタリーで描かれているのはね。あれまだ見れるんですかね?
宮台:見られます。
阪田;オンデマンドで見れますよね。 2ヶ月くらい前のやつなんで、何回も観ていいぐらいのものですね。
宮台:よく教科書や参考書に載っている「焚書」は、当時のヒトラーの、ナチス・ドイツによるベルリンの図書館の焚書とは、ドキュメンタリーを観て分かりました、これはマグヌス・ヒルシュフェルトの生化学研究所の蔵書を燃やしている映像だったんですね。
阪田:はい。ちょっと話を戻して、若い人たちとそういう話を、そういう話というのはバタイユ的な話をしていると<自体的>ということ、つまり「その時をそのまま享受する」ということと、「今を未来の手段として使う」あるいは「未来のために今を犠牲にする」ということ、その二構図式を今日ずっとお話している訳ですけれど、特に若い人たちは関係性をすごい気にするから、でもそれは宮台さんが言う<交換>の原理の上での、関係性だと思っているものに過ぎないのですが、やっぱり気にするんです。
そうするとどうしても「今それ自体」を享受できない。ここが<呪われた部分>なわけですけれども、性愛的な体験もそうだし、キャンプもそう、自体的な楽しさを体験として考える。富士登山やカヤックの旅もそうです。若い人たちもそこまでは理解するし、体験出来る。でも次に出てくる批判、若者からの批判は「今さえ良ければいいんですか」なんです。でもこれって冷静に考えてみたら、「今さえ良ければ」に既に今と未来と過去が入っているから「今さえ良ければ」は「未来を犠牲にしてもいいんですか」という構文になっていて、自体的とは全然違う。
だからもし若い方が聞いていたら、<言葉>の性質に惑わされないで欲しい。惜しい所まで行ってるのに、やっぱり言葉の使い方次第で体験が変わってしまう。本当に注意してほしい、あるいは丁寧にしてほしいなって思うんです。「今さえ良ければいいの」と絶対に親に言われるはずなんですよ。「私は今行きたいんだ。なぜなら今が大事だからだ」そうすると「今さえ良ければいいのか」という批判が来る。それは批判がちょっと的ハズレなんです。でもそう言われたら、「それは確かにそうだな。今さえ良ければいいわけはない」と思ってしまう。まさに『呪われた部分』にされてしまっています。
宮台:そうだね。今から30年くらい前からだから、ちょうど僕が援助交際のことを書いている頃からですけれど、教育論に手を広げてきたんですね。それは当時ある文部官僚のサポートをしていたからなんですけれど、要するに「総合的な学習時間」を体験学習の時間に、あるいは体験デザインによる教育の時間をどれだけ充実させるかというふうにやっていた時期です。その時から僕は、巷で大事だとされる勉強の動機が「勝ちたい競争動機」や「分かる喜びの理解動機」としか語られてないのがおかしいと言ってきた。
一番僕自身にとって重要だったのは<感染動機>。この人みたいになりたい。伝記を読んでそうなることもあるでしょう。僕は感染しやすいやつなのかもしれない。お調子乗りなのかもしれないけど、本当に小室先生に感染したら、一挙手一投足まで真似ようと思っちゃうし、廣松渡先生に感動したら、一挙手一投足を真似ようと思っちゃうの。そうすると睡眠時間を2、3時間で勉強することっていうのも、義務感とか、手段的な、合理主義的な意識とかじゃなくて、廣松先生のように俺も出来てるんじゃないかっていう享楽なんですよ。
なので例えばそういう、感染動機の届く享楽の中に「受験勉強をいっぱいして大学に入る」というのを入れれるんですよ。感染動機というのは本当にメタ的なんですね。理解動機や競争動機を感染動機によって串刺しにすると、喜びに満ちたものになるんです。なので皆さんやっぱり勘違いしやすいのは、「今だけ、ここだけ、自分だけ」、そんな話するわけないだろう。
阪田:そうなんです。そんなはずないんですよ。本当にそんな話をしているはずはないんですけど、言葉尻だけ取るとそれが成立するように見えちゃう。
(バイク音)
木村のおっちゃんがいま目の前をバイクで通過しているので、全く声が聞こえてない可能性がありますが、今話をしていたのは、冷静に考えたらそんなわけないということが、真面目な人ほど言葉尻を真面目に捉えてしまいがちで、「今さえ良ければいい」なんてことは話をしていないって分かるんですけれど、そう思い込んでしまうということがあり得るということです。
(バイクの音がより一層大きくなる)
宮台:(笑)あれも木村のおっちゃんだから、何らかのメタ的合理性があると思います。
阪田:(笑)無駄な動きはしない方ですからね。
宮台:あれはなにか大変重要なシグナルを送ってらっしゃるのかもしれないですね。
阪田:そうですね。お前らなにやってんだ?っていう。
宮台:だからね 、「今だけ、ここだけ、自分だけ」じゃなくて、本当に力が湧いてる状態でやれよってことです。お祭り状態、トランス状態ってそういうこと。
(金属音がカンカンカンと大きく響く)
阪田:木村さんって本当にタイミングがいい人で、どこでどう察知しているのか分からないですけれど、ここぞっていう時にこうやって現れる。今も何かをずっと叩いている音なんですがきっと大丈夫です。正常です。
宮台:なんか高尚になりかけたものが、一気に地面に突き落とされました(笑)。素晴らしいですね。
阪田:(笑)素晴らしいですね。
まとめの話をしていくと、僕が今回宮台さんと議論したかったこと、つまりバタイユの話しを主にしたいなと思ったのは、例えばこの余島が失われていくとして、じゃあ若者とか子どもたちはどこで力を浪費したらいいんだろうかっていうことですよね。その浪費がなかったら本当に戦争に繋がるんだとしたら 、やっぱりこの75年間余島は、戦争回避に貢献してきたってことになります。
果たして人々が本当にそこまで考えて、こういう場所を閉じるとか閉じないとか、土地を売るとか売らないとか、しているとはやっぱり思えないんですよね。
(バイク音が再び鳴り響く)
宮台:マフラーの消音板を抜いてますね。あれ。
阪田:一番うるさいバイクなんです。しかも(笑)
宮台:(笑)暴走族と同じマフラーになってます、、
阪田:元々走り屋だったので。
宮台:そうだったんだ。じゃあ完全に合理的じゃないですか(笑) なんか神妙な顔をして、高尚なことを喋っているような感じだと落としたくなる。素晴らしい事だと思います。
いやあのね、やっぱり微熱を我慢して、ただ勤勉に生きるということになると、抑うつの状態が亢進して沸騰しちゃうんですよね。ファシズム研究はそのことをものすごく明らかにしているし、今現在<ウヨブタ現象>とか<ポピュリズム現象>とか呼ばれるものは、殆ど全てイデオロギーというよりも、鬱屈しているからなにかを攻撃して沸騰したい、という感じなんですよね。
なので微熱に向けた身体や感情の働きを、昔の人たち、子供たちのように健全に育ててあげたいなということなんですよね。
阪田:そうですね。やっぱりこういう余島みたいな場所でさえ、それを運営する人によっては十分抑圧的になるんですよ。
宮台:分かりますよ。なんか阪田さんたち楽しそうにやってやがるなぁ。それだけでもね、ピキピキピキってくる人がいるんですね。
阪田:そうなんですよね。普通の施設はこんなに自由じゃないんですよ。その意味で余島の良さを実は、誰も記述してないと言っていいと思うんですよね。余島もやっぱり、ルールを厳しくやっていた時代があったし、決まりごとの中でやっていたし、職員がある全体のビジョンの中で指令を聞いて働く、みたいな時代がずっと長くあった。でもそれが僕と山本が担当になってからそこは本当に<対幻想的>になっていったんです。
その事を実は、YMCAの人間もあまり体験していないし 、今でさえ宮台さんが来ていただいて、こうして色々言葉にして下さっているし、僕らも言葉にしているけれども、特に過去15年間の余島の良さというか、そのことに対する批評ですよね、良さあるいは何をやってきたのかという批評は、実はされていない。それは少なくともですね、今年と来年で沢山言葉にしていかなきゃいけないなと思っている事なんですね。
それとこの場所に実際に来てもらわないと分からないことの一番は、「ルールがない」っていうことなんです。これは今の時代ではありえなくて、安全管理上あるいはコンプライアンス上、ルールは必要です。でも僕らが管理している余島は本当に自由なんです。色んなルールは掟に近いような形で存在していて、僕は一応所長なので利用者に質問されたりするんですけど、多くの質問には「自分で考えてやってください。考えたら分かると思います」としか答えないんですよ。
そうやっていると「ルールを教えてください」ってたまにキレる人もいるんですけれど少ないです。多くの人はここってなんか自由ですよねって言う。 森本さんなんかはすごい嬉しくて、「彼(阪田)がマネージャーだから自由なんだよ。普通はこういう施設はもっとルールでがんじがらめで、そんなに自由なんてないんだよ」と、初めてきた人なんかに言ってくれる。森本さんぐらいなんですよ、それを見抜いて言ってくれるのは。
つまりその良さっていうのが、若者がただ蕩尽し続けられる場所であること。それを僕はずっとこの場所のエッセンスだなと思っていて、バタイユの語彙を獲得する前はこんな言葉ではなかったですが、余島のような場所で、ルールを作って窮屈にしたらダメだなと、肌感覚でずっとやってきました。それは正しかったんだなって今バタイユを読んで思うんですよね。
宮台:読む前に分かってる直感って本当に大事です。阪田さんのおっしゃったのはね、校則つまり学校のルール、スクールルールの問題と同じだよね。つまりルールを作ると、どんどんつまんなくなってくるんだよね。ごく例外的に学級委員や風紀委員だけが楽しくてしょうがなくなるということあっても。
阪田:ルールの統治者だけがそうなんだよね。
宮台:そう。僕は日本では、近代国家では割と一番最近まで建前と本音が守られてきたと言っていたんです。建前が<法>、本音は<掟>なんですよ、<掟>は明文化されていない昔からの共通感覚の中で、まあいいじゃない?みたいなもの。これが<掟>。だから焚き火もやり放題。ナンバーのない車に乗って荷台に乗り放題。ここは私有地だからね。<私有地>っていうのが<所有>に関わるから重要だけど、昔は公的な場所もそういうふうに、ゆるく共通感覚で、共同的感覚みたいなものが支配していたんですよ。
阪田:感覚的にやばいかやばくないかだけでやれたということですね。要はやりすぎはダメだよっていうところだけが制限として存在していた。
宮台:そう、それって本当に楽しいじゃないですか。力が湧きますよね。ところが今はそこに風紀委員が出てきて「ピー!イエローカード」となってしまう。イエローカードで僕は大学で処分されまくってますが(笑)。
阪田:本当につまんないですよね。時空間だけで考えるとここは無人島で、メインアイランドから物理的に隔離されているので、そういう変な監視の目がないんですね。もちろん僕らスタッフが安全管理はずっとしていますが、
(スタッフと子供たちが通る)
彼らは地元のスクスクっていう子どもたちですね。小さい子どもたちです。年に1回来てくれるんですけど、社会では生きづらさを抱えている子どもたちの通所クラスです。ここに来ると気分がいいんだと思います。
話を戻すと、無人島なので変に通報されたりする心配もない。本当にそういう意味で自由な場所なんですよね。じゃあ、今回強く訴えたいのは「このような場所を社会から無くしてしまっていいのか」ということです。この後、今の現状だと余島を手に入れた企業の方は、リゾート開発をすると発表されているんです。公共性をこれだけ帯びている場所で、学問的にも、今回の議論で明らかになったように、社会で余剰したエネルギーをただ浪費できる場所で、発散できる場所なんですよね。
それは「ストレス発散」という意味ではなく、そもそも余島は、人間が<贈与>することによって自らも<対抗贈与>をもらって生きる力を得るという意味において、バタイユの言う意味において、力を使い続けられる場所なんですね。宮台さんの言葉では<微熱>なんですよね。それが沸騰的な凶乱みたいなものを避ける手立てだっていうことを、戦後の人々が直感的に感じていたということだと思うんですよね。
じゃあ、今ウクライナで戦争があり、アメリカがこのような状況になっている中で、本当に社会からこういう場所をなくしてしまっていいのか、ということを全ての人が考えてほしいと思いますし、僕は今そこに一番の責任を感じています。だからその意味で何かできることを、もっとしていかなきゃいけないと思うんですよね。
宮台:今いろんな国際軍事の戦争があります。名前は言わないけれど、仕掛けた側の指導者の面を見ると、つまらないな、魅力ないなって、本当に思います。もし力が湧き周りに力を渡せるような人、存在だったら戦争はしないなって思いますよね。
阪田:だから戦争って、みんな分かってるようで分かってない気がします。なんでそんなことが起こるんだろうって、僕は子どものときに強く思っていた感覚があるんです。「争わなきゃいいだけなのになんで起こるんだろう」って。だから僕はバタイユの説明がすごい腑に落ちたんですけれど、使わなきゃいけないから最後は使うんだよ。溜めてたら使っちゃうんだよ。
例えば定住前には「生贄を捧げる」という営みがなぜあったのかも、神様からの<贈与>に対して最も贅沢なものを返さなきゃいけないから同種を殺す。同じ人間を殺して、最も贅沢に、まだエネルギーを持ち続けているものをあえて殺して、神様にそれを<反対贈与>として返していたというバタイユの説明は、なるほどなと思いました。
宮台:本当にそうだね。
阪田:だから人間が頭で理解していることは大したことではなくて、冒頭の話に戻りますけど、全体のことを考えると、つまり全体性というのに考えを及ばすと、人間は力で生きてきたし、その力の押し合いや、へし合いみたいなところで生存してきたということが事実としてあるので、そこから議論を展開するとやはりバタイユや吉本隆明の議論になるんだろうなというのは思いました。
宮台:本当にね、<不合理な沸騰>は<微熱の抑圧>の結果を起こる爆発なんです。つまり<不合理な沸騰>は合理的なんです。それがバタイユの、あるいは吉本隆明の全体性=トータリティという感覚なんですね。それをつまらない、国際関係上のバランス・オブ・パワーがとか、権力の空白がとか言っている。死ぬまでやってろってことです。
阪田:はい笑。今日僕が読んだ本はバタイユの『呪われた部分』です。バタイユは面白いんですよ。執筆して最初に、この本の題名は何かと聞かれて、困ったんですね。『呪われた部分』ってことは決まってるけれど、それでは何も説明できてないので、どうしようかと迷った挙句『普遍経済学試論』とした。
浪費すること=使うことが重要だったのに、戦争になってしまったから人々は<浪費>を呪っているけれど、本当はそれは呪われた部分ではなくて、至高性を帯びた出発点なんだから、価値の転換を図りたいんだということなんですよね。
他には『エロティシズム』という重要な本もあります。これは性愛についての描写が良いですね。それとちょっと難しいですけど『内的体験』もある。
宮台:一番難しい。
阪田:人々が宗教と言っているものは何なのかを、バタイユの言葉でかなり文学的に書いていますよね。<内的体験>という体験が、言葉に絡めとられないようにっていう意味合いで書いてるので、そういう意味ですごい難解です。
宮台:でもそれは言葉の外に開かれるための言葉なので、閉ざされてほしくないとなれば文学的、詩的になるのは仕方がありません。
阪田:はい。本当に言葉に閉ざされてほしくないと思って書いてるなっていう文章なんです。あれも翻訳は酒井さんなんですかね?翻訳も解説も素晴らしいので、また宮台さんとどこかででバタイユを中心とした議論はやりたいなって思いますけれども、今回は余島の現状に関連させてバタイユの話をしました。いい話ができたかなと思います。
宮台:最後にね、LGBTQ問題を先ほどワイマール共和国の話の時に触れたけどね、バタイユは『マダム・エトワルダ』という文学作品も書いていて、芝居にも何度もなってきているけど、非常におぞましいクイアーな世界が描かれている。これは性的少数者あるいはクイアーの営みを「権利として登録しましょう」という動きと、「別に何だっていいじゃんという感覚をみんなが実装できるようにしましょう」というバタイユのメッセージとは全然違うことなんですね。バタイユにはその感覚がある。
僕がよく引用するプラグマティストのリチャード・ローティにもそれがありますよね。
阪田:まさしくローティですね。
宮台:ローティそのものです。法律があるから多様性を尊重します。つまり損得感情で多様性が重要とか、LGBTやSDGsを謳わないとブランディングがとか。こういうのはダメなんです。ダメと言ったのはローティですよ。そうじゃなくて、例えば僕が白人だとして黒人が、男だとして女性が、つまり自分とはカテゴリーの違うものがいじめられたり差別されたりしたら「仲間に何しやがんだこの野郎」というふうに怒りを感じるかどうか。これが一番重要な多様性だと言ってるよね。
何事もそう。多様性も重要。でも多様性を法に登録しろっていうのは、まあしてもいいけど、それで達成感に浸るのをローティは<文化左翼=やってる感左翼>と言ってるです。ダメなんだそんなの全然。ということです。
阪田:そうですよね。多様性や包摂性の概念は、単一性や画一性、排他性から出てきてる概念じゃないですか。人間はもともと包摂的じゃないし、多様と言っても仲間を守るための多様だから、今巷で言うような多様性や包摂性じゃないですよね。けれど近代文明というか近代社会では、そうやって人々が求めるから流行っている。
でもよく宮台さんのおっしゃるように、<差別意識>と<差別行為>は別のものです。差別意識は明確に存在するし、そうやって生存戦略上生き残ってきたわけで、そのことをどう展開するかっていうところに、初めて理性や言葉がある。だからその言葉の使い方に最大限注意しましょうっていうのが、僕たちが努力すべきことだと思います。余島で暮らしていたら、皆が巷で言う多様性なんて、ちょっとそんな生やさしいこと言ってる場合じゃないなっていうことが、たくさん起こるんですよね。
包摂したければニーチェが言うように「強い者が強くあり続けないと弱い者は包摂されない」し、「弱い者が、強いものについていかないと包摂されない」。それは弱い者いじめとか、強い者がどうこうという話ではなくて、そういうふうに実際に生きてきたということです。ニーチェを擁護してシュタイナーは、道徳的な感性が人間には働くから、絶対変なことにはならないんだと言っている。
ローティが言うように「つべこべ言う前に一緒に遊べ」です。それを言わなきゃいけないんですよ。キャンプに来ても、子育てでも、大人はつべこべ言わずに一緒にやれ。でもやっぱりつべこべ考えてしまうし、つべこべ考えさせてしまう。
宮台:「踊れないんですよ」。「わかった、じゃあ踊れ」。そうやるんだよ。
阪田:そう、そうやる。ただやるんだよ。その話が今日バタイユと吉本の観点から語られたのではないかと思います。ぜひ若い人を育てている人とか、子どもの親御さんとか、体験デザインをしている方たちがこれを聞いてくださっていたら「ただ使い続けることは何も悪くないんだ」ということを覚えておいて欲しい。
それは全然呪われてなんていないし、ただ人のために使い続けることはむしろ栄光。至高性を帯びたものなんだということを、ぜひ概念的に理解していただいて、もしそういう場所が近くにあるんだったらやっぱり守り続けてほしいなと思います。余島もぜひそういう意味で守り続けたいと僕はいまだに思うので、いろんな協力をお願いしたいと思います。
宮台:楽しいお話でしたね。
阪田:はい。よかったです。ちょっと聞こえづらかったかもしれませんが、
宮台:このノイズがめちゃくちゃ良かったですね。こういう時にまた<法の奴隷>みたいなやつは、「うるせえな」って言ってきますね。僕はイベントをよくやる時に「子供連れできてください。子供がギャーッと泣いていても、しかめ面するような人は初めからもう出て行ってください」と言います。なんでもいいんだよ別に。死ぬほど大切な話してるわけじゃないし、子供にとって大切なことの方がプライオリティが高い。
阪田:そうですね。本当にこういう機会なんで、これを見てる方も是非、余島に遊びに来ていただいて、カオスがどうデザインされてるか、カオスが邪魔されないように、どんな人たちが管理者としているのか。本当にここのキャンプ場のデザインは素晴らしいんです。そこにちゃんとした人たちが関われば、これだけの時空間が守られるんだっていうことをよく見ていただけると思うので、もちろん弾き出される方もいらっしゃると思いますけど、それも含んだ上で遊びに来ていただきたいなと思います。
また宮台さんをお招きしたイベントも回数を多くやろうかなって思ってますので。
宮台:ここにはルール作成者とか、ルール管理みたいな「ブルシット・ジョブ」はありませんからね。
阪田:「これどうしたらいいですか」って質問には誰も答えないと思います。「自分で考えて適当にやってください」という感じなので、ぜひ遊びに来ていただきたいなと思います。ということで、だいぶ涼しくなりましたね。宮台さんありがとうございました。
宮台:はい、ありがとうございました。
阪田」:聞いてくださった方もありがとうございました。