複雑な分業編制体では英雄的秩序と階層的秩序の永続的振幅が必 要 ──さもないと社会から希望が失われてしまう──

荒野塾・秋学期・第1回資料/SNS用
宮台真司・阪田晃一(二人の対話から作成したメモ)

複雑な分業編制体では英雄的秩序と階層的秩序の永続的振幅が必要
──さもないと社会から希望が失われてしまう──

まず、以下の荒野塾・雑談篇の動画を御覧ください。

「最新版【荒野塾・雑談篇Vol 13】宮台真司社会学講義2025後期が始まります!なにが本質なのかを語る『インディオの生活形式と体験様式』|ロバート・レッドフォード映画特集」です。

1時間24分以降、カリスマについて語っています。新反動主義者ティールがなぜ「カリスマ」を持ち出すのかが、分かる筈です。ティールのインタビューです。
https://www.dropbox.com/scl/fi/bvxt7beto1rc6bpscqkld/25.11.10.rtf?

そして1時間50分にかけて、暴力団組織(工藤會)と、Apple&BMWの企業組織に、問題を応用して語っております。そこで社会主義(階層的支配)にいかなる可能性も存在しないことも語られています。あとで深めます。


足立正生監督をインタビューした以下のドキュメンタリー映画「革命の子どもたち」を御覧ください。


この映画では重信房子さんのカリスマ性が間接的にフィーチャされておりましたので、あらためて、世直しにおけるカリスマの必要性と、カリスマなきあとの対策の準備の必要性を考えるために役立ちます。


関連して、先日他界したロバート・レッドフォードが制作総指揮の映画『モーターサイク
ル・ダイアリー』を御覧下さい。チェ・ゲバラの若い時のバイク旅行の日記をもとにした映画ですが、ゲバラの革命志向が目覚めるきっかけとなった重要な旅です。
アルゼンチンから南米大陸を縦断しますが、そこで出会う先住民族、土着(ヴァナキュラ ー)の人々、迫害されたハンセン病の人々によって、ゲバラは覚醒していきます。

人の良さそうな、医師を志す青年ゲバラが、若さゆえの勇気、無謀さ、謙虚さによって近代社会に対する反感を強め、革命を志すようになった成長の経緯が、南米の原生自然と太古からの人間の営みを想像させる豊かな描写によって痛々しくも感動的に描かれます。

リチャード・ローティに倣って「希望」を描くレッドフォードの凄さに唸ってしまう作品です。「若いというだけで素晴らしい」といった感覚が完全に消え失せてしまった日本(のような近代社会)において、革命前夜のゲバラの奮闘は「希望」として受け取れます。

そのゲバラは、ペルーの思想家に影響を受けているのです。その思想家とはホセ・カルロス・マリアテギ。そして、その思想は共産主義の理想を掲げるもので、以下の内容です。

  1. 国際共産主義運動への連帯
  2. 帝国主義支配に対して階級的視点(労働者と農民の同盟)から反抗を組織する。ペルーの中間階級は白人文化への親近感を持ち先住民と協力はしない、という現実を認識する。
  3. インディヘニスモ:「まず先住民の復権に着手しなければ、ペルーに社会主義は根付かない」という考え方であり、先住民の共同体は社会主義の基礎になりうるとも考えた。

一言にしていえば、「支配したい支配者」による支配から、「支配したくない支配者」による支配を目指したと言えます。ゲバラにも、ゲバラが起爆した国際共産主義運動の実践にも、インディオの影響があるのです。


本作は、一言でいえば、どのような人間が愛されるのかを描いています。それゆえ、なぜ昨今の日本のカレシカノジョ関係が恋愛関係とは言えないのかも、示されています。同じく日本に存在する複数関係がポリアモリー=複数愛とは言えない理由も、示されています。

この映画は、若き日のゲバラの放浪を描くロードムービーです。注目するべきなのは、彼と放浪を共にする親友のナンパ師。この愛する力が過剰な男は、ラストシーンで、対幻想から共同幻想へのゲバラの離陸を予感し、なんとも悲しい表情をします。

2人は、6年後、ゲバラがキューバ革命を成功させた直後に再会しますが、その5年後にゲバラがCIAに暗殺され、この親友は悲嘆に暮れます。撮影現場には、この親友も立ち会っています。

愛する力が過剰な人の複数関係だけがポリアモリーと呼ぶに値します。日本の若い人は、カレシがいながら「マチアプ」で複数と関係する営みをそう呼んでいますが、勘違いです。本作でクオリア(体験質)を得て勘違いを正して下さい。

愛する力が過剰なこの親友は、自分よりもゲバラのほうが、遥かに愛する力が過剰だったことを感じています。ゲバラが複数愛どころかすべての人を愛してしまったのだと。だから、対幻想が共同幻想に転態して、破滅するだろうと。

愛する力とは、この人のためなら死ねるという対幻想であることも、重ね焼きのように描かれます。複数愛であれ、人民愛であれ、変わらない。自己防衛のために複数の選択肢に保険をかける複数関係は、どんな意味でも複数愛とは呼べない。それは単に複数消費です。

本当に愛せる相手が現れれば、死ぬことが怖くても怖くなくなります。とはいえ、これは実際に相手が危機的な事態に陥ることがない限り、わからないということもあり得ます。それは、複数愛であれ、人民愛であれ、同じことです。

しかし、そのことを以て、結果的に、それが本当の愛であるのかが試されます。自叙伝『聖と俗』に書きましたが、複数愛ですらほぼ不可能なのだから(複数愛だと思ったのに結局は複数消費に過ぎなかったという顛末)、ゲバラの人民愛は殆ど不可能な奇跡です。

これは、ティールが、なぜ共産主義や社会主義に与することができないのかにも関係します。答えを言えば、人民愛ゆえに人民から愛されるゲバラのようなカリスマ的政治指導者が、滅多に現れることがないからです。

だから、カリスマ的指導者なき後、人民愛に基づく制度を標榜していたにせよ、実際には、主義や、主義に基づく制度に、固着する構えに頽落します。それを弁えていたのがが、英雄的秩序と階層的秩序を、主義に陥らずに振幅させる、インディオの思考でした。


ゲバラはもう一つ、ベニチオ・デル・トロの映画二部作があります。
『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳別れの手紙』です。

そこにも描かれていますが、「国際共産主義運動」として言えば、ゲバラは、先住民の復
権という企図を起点に国際共産主義運動に向かうのです。

しかしここでもはやり、ローティが言うように、“「主義」主義”的な言説に絡められた
結果、226青年将校のごとく「主義」に向かう実存的純粋さを競うがゆえに極端化します。
釈尊をひいて龍樹が言う上座部(小乗仏教)的誤謬です。以下の宮台メモをお読み下さい。
https://www.dropbox.com/scl/fi/kwlb6hp09xad91cdxwsln/25.10.03.pdf?rlkey=buivz1ovtl50z4hzld2grkjtn&st=r6mj75on&dl=0

かくてゲバラも結局は武力行使を正当化、リベラルの自壊への道を辿ります。着眼点が南米の先住民文化の復権であるだけに、それでも新しいアメリカ(白人)に抗うためにはや
むを得ないことだったのかもしれません。

しかし「やむを得ない」で突き進めば、釈尊=龍樹のいう、自意識中心の「やってる感」
になり、世界(時空のあらゆる全体)が見えなくなり、長期的にはリベラルは自壊することにあります。

なお「リベラルの自壊」とは、法という「暴力的威嚇を背景とした命令」による秩序形成は、おそかれはやかれバックラッシュを招いて、もろくも自壊する、という92年のアムネ
スティーレクチャーズでローティが語ったことです。

国際共産主義運動にめざめたゲバラの出発点は、『モーターサイクル・ダイアリー』が描くように、より大きな残酷に感情が動き、その残酷の回避に向けて自動的に体が動く構えです。つまり、ロールズを経由してローティが定義した「リベラル=残酷の回避」でした。


先日の芥正彦とのトークショーで語ったように、芥正彦「風神雷神図」とその大衆版ともいえる宮﨑駿「もののけ姫」は共通して、釈尊のごとく、光と闇、善と悪、秩序と無秩序、希望と絶望、生成と消滅…といった二項図式を、いったんは立てた上で完全に否定します。

これはインディオの体験形式(思想=主義では、ありません)と共通するものであり、また、それは釈尊=龍樹の、「有(う)でも無でもない、空(実体ならぬ仮体)」という体験形式と共通するものでもあります。先に示した以下の宮台メモをお読み下さい。
https://www.dropbox.com/scl/fi/kwlb6hp09xad91cdxwsln/25.10.03.pdf?rlkey=buivz1ovtl50z4hzld2grkjtn&st=r6mj75on&dl=0

主義はもっぱら共同幻想(従って言語)に関わり、従って正しい主義に基礎付けられた法つまり「暴力的威嚇を背景とした命令」に堕落します。より大きな残酷の回避に向けて大きく感情が揺さぶられ、体が自動的に動くのは、対幻想(言語以前的情動)に関わります。

情動emotionは言語を持たない動物にもある。これを感情sentimentと訳すと、人間的な喜怒哀楽という言語で規定可能な何かに頽落します。その結果、言語以前的な反応が、言語的に構築されたself(自己像・自己物語)が脅かされた時に生じる反応に切り縮められます。

過去四半世紀、芝居のポストトークで、幾度も公衆の面前で僕との怒鳴り合いを続けてきた芥氏は、しかし次の芝居でも僕をポストトークに呼び続けてくれました。それが、芥氏が情動で感染的に連帯する人であることを示します。これを昨今の若い人は「感情的にならないで下さい」と止めますが、情動と感情の区別がつかない育ちの悪さゆえの頓馬です。

あらためて、芥正彦「風神雷神図」に寄せた、僕の文章をお送りさせていただきます。そこでは、規定可能な感情に切り縮めることが一切不可能な、規定不能な情動について語っています。芥氏は、まさにたぐいまれな表現者だと思います。
https://www.dropbox.com/scl/fi/yhbkwxcf7mvj971yp34n3/25.11.08-PAGE-isshiza-official.pdf?rlkey=ui53twnlsxms5hjfbsslws06q&dl=0


「リベラルの自壊」を語るローティの思考は、プラトン&アリストテレスの思考や、グレーバーが重視するインディオの思考と、完全に重なります。ただし、僕がいろんなところで繰り返すように、法・不要論ではなく、法はあくまで仕方ない次善の策だという思考です。

先の雑談篇動画で語った通り、インディオが手放さなかった「英雄的秩序と階層的秩序の振幅」(グレーバー)が示すものは、カリスマが機能しなくなった期間の次善の策的つなぎとして、暴力的威嚇を背景とした法的命令による階層的秩序を手放さないという思考です。

ローティの基礎付け主義批判は、リベラルな真理に基づく法さえあれば秩序形成できるとする発想こそが、真理に基礎付けて法を正当化するリベラルの愚昧だとの趣旨です。基礎付け主義は、頓馬な自称他称リベラルに向けた批判のために持ち出されているのです。

彼は、「良心による秩序だけではもたなくなるほど社会が大規模化・複雑化した以上、法的威嚇による秩序が必要にならざるを得ないが、社会が法的威嚇による秩序に一元化すれば、もはや社会とは言えない」とするプラトン&アリストテレスの思考に倣っています。

確かにローティは、リベラルな社会秩序は、法的威嚇と、感情教育の、二本立てによって初めて支えられる、と主張しています。ただしこれは、感情の豊かさを背景とした法的同意と、同意した法による懲罰を伴う強制性、ということではありません。全く違うのです。

法は公共空間に狙いを定めたもので、解像度がとても低い。だから彼はバザール(公)とクラブ(私)を分け、私的空間で周りの人々を動機づける(力を与える)感情能力がなければいけないと言う。法的同意の調達だけでは、秩序が成り立っても社会とは言えないとする立論です。

だから単なる「威嚇による秩序はバックラッシュする」という話に留まるものではありません。そうではなく、社会に「希望」を与えるのは、感情の内発性に支えられた私的空間の幸せだからだ、と言うのです。そう。バザールは共同幻想、クラブは対幻想の、時空間です。


従って、愛国を支える「物語の共有」こそが人々に希望を与える(『リベラルユートピアという希望』)というのは、あくまで私的領域における生き方の共通前提を互いに期待しあえるからこそ二人が深く愛し合える、見ず知らずの他人でも仲間だと感じられる、という話です。

つまり、リベラルユートピアという希望を与えるのは、「一つの社会」においてであれば、どんな私的領域にも同じ物語の共有があるという、私的領域「内」に留まらない私的領域「間」の共通前提なのだという話です。それが「一つの社会」を与えるとするのです。

だから三島由紀夫が言うように、愛国は強制されてはならず、「物語を共有できるように育ち上がった結果としての」──従って「祖先から継承した生活形式の結果としての」──愛国でなければならないのです。愛国はあくまで私的領域(に跨がる共通性)の問題なのです。

その圧倒的な事実を、これ以上はあり得ないというほど摘抉しているのが、やはりレッドフ ォード監督の映画『リバー・ランズ・スルー・イット』と、『モンタナの風に抱かれて』なのです。ローティの理念のクオリア(体験質)を与えるべく、実に研ぎ澄まされています。

ロバート・レッドフォードはほぼ一貫して、アメリカという物語を共有できるように育ち上がるとは、どのように育ち上がることなのか、という「育ちの良さ」を問題にし続けているわけです。その意味で、ローティの思考を、限界まで忠実になぞっているのです。

そのアメリカという物語は、生活形式がどんどん近代化し、かつ生活形式が分岐していく中では、論理的に考えて、固定された神話であってはならず、たえず更新されなければならないのだ、という一線を崩さないことで、排外主義を免れる形になっています。

そして、ティールは驚くべき裏技として、それは「テックが与える希望」しかないだろうと言うわけです。そのように考えたとき、ティールがどれだけ重要なことを、思想史に棹さして語っているのかが、分かります。そこには、いわば「希望の系譜学」があるのです。
https://www.dropbox.com/scl/fi/nkkqngxervhwshhx2yli6/25.11.10.pdf?rlkey=vz3pewf57hxutyeohanrp6h26&st=67d6jdqb&dl=0


しかし、僕はティールにはくみしません。とはいえ、退けることもしません。くみしないのは、テックが与える希望は、所詮は絶望と裏腹だから。断念に断念を重ねた結果として与えられる「諦めた末の希望」です。諦めは、しかし諦める前の記憶を消すことができません。

ということは、記憶のない世代や人々が幸せになりたいのであれば、構造的に希望を実現できない政治に希望を見出すよりも、「幸せ供給テック」が与える希望にすがるのが合理的です。このあたりの詳細は、来年1月公刊予定の『宮台式人類学(仮)』で記述しています。

僕は、記憶と、記憶に紐付けられた希望を重視します。それを重視した時、どんな実践が可能なのかを考えなければなりません。そこで、子どもたちの身体能力と感情能力(正確には情動を言語で抑圧しない能力)を育てる野外実践を、宮台と阪田が実践中というわけです。

達成や未達によって人々を号泣させるような希望が、果たして「テックが与える希望」にあるでしょうか。「あなたのために死ねる」という構えをお互いにとりあえる以上の希望が、この世に存在するでしょうか。「テックが与える希望」は所詮はその程度のものです。

ゲバラが、僕の生誕年1959年に来日したときの、貴重な発言をフィーチャした文章を御覧ください。予定を変更して広島を訪問した時の逸話です。それを映画化したのが、阪本順二監督の『エルネスト』です。

「きみたち日本人は腹が立たないのか」チェ・ゲバラは、広島の原爆資料館で憤った。

諦めを重ね、諦める前の記憶がつらいから全て忘れる、ゲバラに糾弾された恥ずかしい日本人。貫徹優位をないがしろにした適応優位にも、程があると思いませんか? ゲバラのこの訪問は1959年です。すでに忘れているわけです。敗戦からたった14年だというのに。

ローティがプラグマティストの手本として感染するデューイが言うように、「諦めが悪いこと」、それが何よりも希望なのです。「あなたのために死ねる」という希望がそれです。だから、「みんなのために死ねる」ならぬ、「あなた方のために死ねる」だけが希望です。


ゲバラの若き日、アマゾン川対岸に隔離されているハンセン病患者のことを案じるあまり、夜中に川に飛び込んで泳いで対岸を目指します。ゲバラの誕生日を病院で祝ってもらっていたのが、隔離されているハンセン病患者たちにこそ祝って欲しいと思い、飛び込んだのです。

対岸で騒ぎに気付いて、真っ暗なアマゾン川を泳いでくるゲバラを見て、思わず皆が叫んで応援します。ボランティアの研修医であったゲバラは、病院の誰よりもハンセン病患者に親切で、いっさいの差別をしなかったので、みんなから愛されていたのです。

みんなを愛する感情能力(正確には情動能力)がある者だけが、みんなからいつまでも愛される。その圧倒的な摂理を示す『モーターサイクル・ダイアリーズ』のクライマックス。だからそれは意識することなく国境を越えてしまう。それが国際共産主義運動の出発点でした。

とても感動的なシーンです。でも、それが神話化されて、神話がそのまま法的支配の理念として固定された結果、際限のない対幻想(あなた方のためなら死ねる)が、たかが国家の共同幻想(みんなのためなら死ねる)に置き換えられてしまった。なんとも悲しいです。

█ 補足
共同幻想と対幻想という吉本隆明の概念について、知らない若い人もいるでしょうから、 ChatGPT5に尋ねてみた結果を、無修正でお示しします。若干問題がありますが、概略を掴むことができるでしょう。
https://www.dropbox.com/scl/fi/rzk84h6h22k3a0ugaw2cc/25.11.12-GPT5.pdf?rlkey=ukzxszguqfuvds63h22rs84k4&dl=0
https://www.dropbox.com/scl/fi/qfnj2ymdbay4fxkbbjvq1/25.11.12-GPT5.pdf?rlkey=f47wp03qqi71jjlaagdaywx20&dl=0

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