2025.11.24【宮台執筆】荒野塾<社会学原論第2回資料>天体から存在論へ|テレンス・マリック監督『ボヤージュ・オブ・タイム』
荒野塾『社会学原論』のための資料を公開いたします。
執筆 宮台真司
【宮台執筆】荒野塾<社会学原論第2回資料>天体から存在論へ|テレンス・マリック監督『ボヤージュ・オブ・タイム』





11月23日に久しぶりで撮影した天体写真の一部です。これらの天体の、息を飲むような佇まいはどんな芸術にもまさると感じられます。なぜ、こんなものたちが存在するのか? そう思った皆さんはテレンス・マリック監督『ボヤージュ・オブ・タイム』をぜひ御覧下さい。
天体に息を飲むのはヒトだけです。なぜヒトだけなのでしょうか。それはヒトが奇蹟を感じることができる動物だからです。なぜ奇蹟を感じるのでしょうか。それは「超越」に開かれているからでしょう。なぜ「超越」に開かれているのか。「超越」とは何なのか。
ギョベクリテペ(最古の巨大神殿)について1月上梓の『宮台式人類学(仮)』に記しました。1万2000年前ないし1万4000年前の巨大遺跡です。ヒトが遊動段階にあった頃です。遊動段階に既に、時空の特異点という意味での超越への開かれがあったのです(末尾の注釈へ)。
文明段階における超越のおそらくは萌芽にあたるものです。僕の考えでは、超越への開かれは、記述的(コンテタティブ)な言語用法の習得によるものです。記述的な言語用法によって、〈世界〉はいつでも別様であり得るのだという感覚が生まれます(ハイデガー)。
◇◇◇◇◇◇◇◇
なお狭義には超越とは、文字による広域統治たる文明に関わる観念です。あらゆる全体=⟨世界⟩。コミュケーション可能な全体=⟨社会⟩。最古は⟨世界⟩=⟨社会⟩(アニミズム)。文字記録の累積で、祈っても天体が動かないと知られ、⟨社会の外⟩の存在が看取されます。
かくて ⟨世界⟩=⟨社会⟩+⟨社会の外⟩ となる。⟨社会⟩(ノモス=法共同体)は⟨世界⟩(ピュシス=万物) の荒海に浮かぶ小舟だとする観念です。ゆえに超越が⟨世界⟩の「見通せない存在理由」に紐付けられ、セム族が一神教化。分裂生成で、初期ギリシャが「反」一神教化します。
◇◇◇◇◇◇◇◇
テレンス・マリック監督は、大学で、ハイデガーとヴィトゲンシュタインを講じていました。彼が、奇蹟・超越・言語・偶然・常に別様たりうること・常にここではないどこかを感じることについて、どれだけ真剣に考察しているのかを示す、素晴らしい作品です。
「ここ」と「ここではないどこか」。「ここではないどこか」が「ここ」になった途端、ヒトは新たに「ここではないどこか」を感じます。言語の働きによる永久の運動です。僕の考えでは、これが、最も萌芽的な「内在」と「超越」の関係性を示す意味論的な運動です。
「ここの宇宙」での善は「ここではないどこかの宇宙」では善ではない。「ここではないどこかの宇宙」の善は「更なるここではないどこかの宇宙」では善ではない。しかし、唯一の創造主は、無数にある「どこの宇宙」をもお創りになった。…とマリックは語ります。
マリックは「奇蹟」→「超越」→「言語」と思考を進め、「諸事が常に別様たりうること」→「別の〈世界〉があり得る(あり得た)こと」 を僕らに体験させ、それに連なる形で「どこまで行っても偶然であること」、 それゆえの「善の計り知れなさ」について、思考を促します。
「神よ、あなたにとって善とは何なのでしょう。全ての実在がいずれは消滅するならば、あなたは何を成し遂げようとしておられるのか。しかし私はあなたが決して答えないことを知っています」と黙想するのです。僕らは、イエスと釈尊の関連を考察せざるを得ません。
紀元前5世紀の釈尊は、輪廻転生があろうがなかろうが「どうでもいい」と説き、五百年後のイエスは、ラビ(聖職者)が言う律法を守ろうが守るまいが「どうでもいい」と説きました。だからシュタイナーいわく、イエスは釈尊の転生です。なぜ「どうでもいい」か。
◇◇◇◇◇◇◇◇
最後に 「希望」 「愛」 「希望を抱く者が存在した事実は終わらない」 「愛する者が存在した事実は終わらない」と語られます。釈尊が、炎の如き化体 (有でも無でもない空) である 「自己」・への執着と見做す「永遠の命・輪廻転生・永劫回帰」の如きを、語るものではありません。
全てが終われば、始まる前に戻るだけ。全ての終わりは、始まりと同じである。ただし新たに始まるものは、終わったものと 「何一つ」 似ない。創造主にとって永劫回帰は単に退屈である。だから当たり前なのだ…。ペンローズらのサイクリック宇宙論に似た語りです。
終わりは、始まり。しかし、続くものはない。繰り返すものもない。以上の事柄について黙想していただいた上、ラース・フォン・トリアー『奇跡の海』と並べて鑑賞すべきだと申し上げた、ジョナサン・グレイザー監督『アンダー・ザ・スキン』をぜひ御覧下さい。
『アンダー・ザ・スキン』の思考が『奇跡の海』より遙かに遠くにまで達していることを体験していただけるでしょう。なお『アンダー・ザ・スキン』が2014年、『ボヤージュ・オブ・タイム』が2016年の作品です。双方の作品には、酷似した映像が複数出て来ます。
◇◇◇◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇◇◇◇
撮影は八ヶ岳山麓、標高1200mの天体観測用山荘からです。天体望遠鏡は旧いものからあたらしいものものまで11台あります。牧草地のど真ん中にあって殆ど360度見晴らせます。
最も古いのはタカハシFC70mmフローライト(蛍石レンズ)赤道儀
次に古いのはビクセンAP80mm赤道儀自動追尾式。オプションががちゃがちゃしています。
一昨年まで使っていたボーグ90mmフローライト(蛍石レンズ)赤道儀。双眼鏡による立体視と自動追尾式の天体撮影を同時で行えるよう、ハイテク機器を満載で、超マニアックです。
コロナ前からは極軸合わせやアライメントが不要な、それどころか赤道儀架台も不要な、世界初の全自動天体望遠鏡ユニステラーUnistellar eVscopeを導入。接眼レンズはなく、スマホやタブレットで観望する。映像を数十枚重ねて(スタックという)短時間で光量を確保。淡い星雲まで写真図鑑のように観望・撮影可能。天体の導入もスマホを使った全自動。
現在は天体写真のボトムにクレジットされたZWO Seestar S50。同じく全自動のスタック観望・撮影の天体望遠鏡。反射式のユニステラーより優れているのは、屈折式で霜よけがほぼ要らないこと(最低気温マイナス15度になる)と、赤道儀架台をオプション追加すると極詳細な見掛け解像度を実現可能な点。今回の写真群はデフォルトの経緯台架台によるもの。
実は、星座全体を撮る星野(せいや)写真はスマホでも出来ます。以下はスマホで撮影した天の川。木の間から星が1つ覗きます。ぜひ天体写真仲間になって⟨世界⟩を感じましょう。
末尾の注釈(5ページから)
マヤは最新の研究では2700年続いた世界最長文明です。エジプトは古王国・中王国・新王国と断裂するのでマヤほど続いていません。マヤ文明は半遊動・半定住の焼き畑文化で、人々はアニミズムを生きます。万物に「見る力」を感じ、万物に見られることで力が湧きます。
文字は漢字に似てヘンとツクリとカンムリがあり、音訓のような読みのモードもあります。文字による収税記録をベースに神官の広域統治があるので文明です。西洋が近代になって漸く追い付いた、文字記録による高度な天文学がありましたが、神官が独占しました。
だから、神官が指を指すと、月蝕や日食が始まったり、ククルカン神殿にヘビの影が出現したりしました。それゆえ神官にはとてつもない力があると信じられ、暴力的威嚇に頼るより、畏怖させる力による統治がなされました。階層的統治というより英雄的統治でした。
そのククルカン神殿はヘビを祀ります。アニミスティックな存在の中でもヘビは特別なのです。ジャガーも「密林」の守り神で特別でしたが、ヘビは「⟨世界⟩=⟨社会⟩」の守り神でもっと特別でした。数多のアミニスティックな存在はあれ、時空の特異点だったのです。
マヤでは、神官は「⟨世界⟩=⟨社会⟩+⟨社会の外⟩」だと弁え、アニミズムの時空から半身だけ外を生きましたが、民衆は「⟨世界⟩=⟨社会⟩」のアニミズムを丸々生きていました。だからマヤは、文明以前的な超越と、文明的な超越の、繋ぎ目を示していると思われます。