2026.1.30【荒野塾参加の感想】 効率化されたシステムに自分を預けるのではなく、ぜひ一度この不親切で豊かな荒野に立ち、「心を焼かれる」体験をしてほしい
2025年度後期に参加の小林さんから感想を、ご本人の許諾を得てここに公開します。荒野塾へのご参加をお待ちしております。またあらゆる体験デザインについて、協力できます。依頼はお気軽にお寄せください。
小林さん、ご参加いただいたみなさん、ありがとうございました。
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2025年度後期社会学原論と時事問題の社会学ゼミへの参加
私は普段、海のガイドをしています。 自然というコントロール不能な領域にお客様を案内する中で、単なるリフレッシュ以上の何か――日常へ持ち帰るべき「芯」となる心構え――を提供したいと願ってきました。そのためには、私自身の芯をより深く太く根付かせる必要があり、指標となる高いレベルのロールモデルやメンターを渇望していました。
しかし、現実の身の回りで見つけることはできずにいたのです。 私がこの講座を選んだ理由は、ここにこそ、私が求めていた「圧倒的な深さと広さ」があるのではないか、と予感していたからです。講師の宮台真司氏は、複雑な眼前の問題から、人類が火を使い始めた180万年前という原初の地点にまで至るあらゆる事象を「縦横無尽」に行き来し、その土台まで一つひとつ遡り、思考を積み上げることを徹底されています。
そうして構築された思考は、単なる知識の羅列ではなく、あらゆる方向に根を張り、複雑に絡み合った一つの巨大な「生態系」を成しています。そして、この場をデザインされている阪田晃一氏は、フィールドを舞台に若者たちの魂を育てる「野外教育のプロフェッショナル」であり、文学から映像作品に至るまで、広大な守備範囲でこの生態系への水先案内を務めておられます。
私はライフワークとして写真を撮ってきましたが、かつて東京で、被写体に向かいながらも画面を真っ黒に塗り潰してしまうような写真を撮り続けていた時期がありました。それは自分自身への「絶望」の現れであり、安易に鮮明に見えるようにすることは「自分に嘘をつくこと」だと感じていたのです。そうしてレンズ越しに世界に向き合うたび、自分を支える足場が薄弱であるという痛切な自覚もありました。
ナショナルジオグラフィックの写真家たちのように、社会の「縁(ヘリ)」ギリギリに爪をかけ、命がけでその向こう側を撮ってくる人々。彼らを支える強靭な肉体や教養に比べ、「薄っぺらな自分がどうすれば偽物ではなく、本物として生きていけるのか」。それが私にとっての、最も切実な課題でした。 この講義は、その問いに対する応答でした。
それは単なる知識の伝達(インプット)ではなく、宮台氏の思考法や、阪田氏が提示する言葉・作品を通じ、物事が何に支えられ、どう絡み合っているのかを遡行する作業でした。便利にパッケージ化された「答え」を消費するのではなく、あえて手間のかかる対話や、時にはAIを使いこなす「実験」のような試行錯誤をも包摂するこの場。
その不便さや摩擦の中でこそ生まれる受講生同士の「助け合い」を眺めるうちに、自分自身の過去や現在、関わった人々との体験すべてが繋がり、身体の中の細胞密度がぎゅっと増していくような、物理的な感覚を伴う変化を感じることができたのです。
講義の中では、ある時は重く沈み込み、またある時は黒い雲が切れて光が差し込み、宇宙の果てまで視界が開けるような衝撃を、画面越しであっても確かに感じることができました。私が憧れ続けていた「世界のエッジ(最前線)」を届けてくれる稀有な存在を、ここにはっきりと垣間見たのです。
もし、あなたが自分にとっての「志の高いロールモデル」が身近にいないと感じているなら、この講座には人生を賭ける価値があります。私のようにフィールドに出ていて時間が限られている人間でも、閑散期などの隙間を縫って参加する意義があります。
あるいは、時間をかけて自分を育て直したい人にとっても。 単なる「リスキリング」のような表面的な学び直しでは、この現実の重みや速度に到底「間に合わない」と本能的に感じている人にこそ、この場が必要です。 効率化されたシステムに自分を預けるのではなく、ぜひ一度この不親切で豊かな荒野に立ち、「心を焼かれる」体験をしてほしいと思います。
スキンダイブ与論 主宰 小林剛