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動画販売|【荒野塾・雑談篇スペシャル】言外の徴候に敏感な人が病気扱いされるクソ社会 |レイン→ラカン→中井久夫という反精神医学の系譜(体験デザイン研究所宮台真司・阪田晃一)

動画販売|【荒野塾・雑談篇スペシャル】言外の徴候に敏感な人が病気扱いされるクソ社会 |レイン→ラカン→中井久夫という反精神医学の系譜(体験デザイン研究所宮台真司・阪田晃一)

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※現在アーカイブ動画販売中

※冒頭10分ほど音声が安定しません。ご了承ください。

※配信日より1年間視聴可能です。ライブ配信のリンクとは異なります。

 

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荒野塾・雑談篇スペシャル!

2024年12月24日にLIVE配信された動画のアーカイブです。

購入後に送られる注文確認メールに、配信URLを記載しています。

 

言外の徴候に敏感な人が病気扱いされるクソ社会 |レイン→ラカン→中井久夫という反精神医学の系譜

なぜR・D・レインか?忘れさられた反精神医学の精神科医

映画『カッコーの巣の上で(1975年)』では、1960年代の精神病棟が描かれます。ジャック・ニコルソン演じるマクマーフィは、刑期中の強制労働にも取り組まない「狂っている人」のように見えました。だから精神病院に送られたのです。彼は犯罪歴について説明しながらこう言います。「我慢してもクレイジー、しなくてもクレイジー。いったどうなっているんだ?おれにはさっぱりだ」。

病棟には「チーフ」と呼ばれるネイティブ・アメリカンの大男が入院しています。緘黙を装い、文明社会で酒に飲まれて死んでいった父と同じ道を辿るのではないかと案じています。そこにマクマーフィがやってきて「ずらかろうぜ」と誘うのです。「お前は大きな人、おれは小さな人。だからいけない」と断るも、マクマーフィの歯に衣着せぬ物言いに感化されていきます。

しかし当時の精神病棟は電気ショック、薬漬け、拘束具やパッドで覆われた独房など、およそ人間扱いとは思えない環境の中で、精神病患者たちは管理されていました。映画『さらば青春の日(1972)原題:Believe in Me』は、そんな精神医学に一石を投じたグラスコウの精神科医ロナルド・D・レインをモデルにした(と思われる)若き研修医が主人公です。若き研修医レミーは、レインと同じく、音楽に長けています。子ども病棟でピアノを弾きながら子どもたちを楽しませる場面から映画が始まります。

幼少期から繊細で、どこか危ういレミー(レイン)は、あどけない子どもたちが病によって死んでいくことにひどく動揺します。同じように、およそ患者のためとは思えない治療によって苦しんでいる人々を見て怒り、苦しむのです。

苦しみとは何か。なぜ私たちはこのように苦しんでいるのか。なぜ人々はあんなに残酷であるように見えるのか。こうした疑問に私は——全部とは言わないまでも部分的には——答えられるかもしれない」

医師の道を志すことを決めたレインのこの言葉が思い起こされます。

ドキュメンタリー映画『Mad To Be Normal(2017)』では、このレインの優れた身体性が、その脚本、演出、演技によって見事に再現されています。独房に閉じ込められた少女に歩み寄り、見事に心を開きます。最初にあるのがミラーリング(服を脱いで同じ姿勢をとる)。その次にあるのは、患者扱いじゃなく普通の人間扱いする営み(タバコを勧めて話す)。さらに次が、共同身体性を体験させる営み(ツポ押しを口実にした身体的接触)。最後が、キミは普通の人と同じ生活ができるよと体験させる営み(ピザの注文)。

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イタリア映画『人生ここにあり!(2008)』は、1980年代にイタリアで起こった世界初の「精神病棟廃止運動」を導いた、精神科医フランコ・バザーリがモデルとなっています。レインとも親交のあった医師です。彼らは精神病棟解放により、閉じ込められていた人々を社会に放ちました。その結果、様々な不幸にも見舞われました。しかしそれらを乗り越えて「世界保健機構」の設立へと繋がるムーブメントを作るのです。

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さて、R・D・レインは、「三十歳までに書く」と決めていました。そして三十歳で『引き裂かれた自己〜狂気の現象学』を書きます。そこにはこうあります。

「統合失調症患者の狂気の言葉や狂気の行為は、彼の実存的な文脈を理解しなければ、本質的にはいつまでも閉じられた書物のままであろう。狂気へといたるある過程を記述する際に、私は次のことを示すだろう。すなわち、正気な統合失調気質の人の世界内存在のあり方から、精神病者の世界内存在のあり方への移行には、理解可能なところがあるということである——」。

統合失調症(分裂病)を理解不可能な病理としてではなく、了解可能な気質として尊厳的に捉える。中井久夫の『S親和者』を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。レインは自らの世界内存在としてのあり方を回顧し、こうも言っています。

「私は精神科医という職業上、精神異常の患者と会うようになった時、ぞっとした。患者の観点が分かりすぎるほどよく分かることもあるのに気づいてぞっとしたのだった」

さて、なぜレインは忘れ去られているのでしょうか。すべての作品で、レイン(という言葉の外の徴候に敏感な者=狂人)は、子どもにも女性にも人気がある人物であり、過剰な敏感さゆえの危うさがある。そんな存在として描かれていることが大きなヒントです。それぞれの作品を見ても分かるように、狂人が有する圧倒的な身体性を目の当たりにした、身体性を持たない平凡な者たちによる妬みと嫉みが、R・D・レイン(やハリー・スタック・サリヴァン)のような突出した存在を、この社会の歴史からいっとき、消してしまうのです。

実は日本では、いまだに1960年代のような精神病棟が存在します。そして日本だけでなく多くの社会が、社会という関係性の中で苦しむ人々に寄り添うようなあり方ではなく、むしろ、社会から統合失調気質の人々を「狂人」として排除しようとしています。

言葉の外で生きることのできる「狂人」たちを包摂できる社会とは?R・D・レインの実存に迫りながら議論します。

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R・D・レイン(1927ー1989)は、イギリスの精神医学者。グラスゴウ大学医学部卒業。1960年『引き裂かれた自己』を発表。1965年に反収容主義の「キングスレー・ホール」を開設、独自の医療を実践した。主著に『経験の政治学』、『狂気と家族』など。
※自叙伝『レインわが半生』1985年より

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